三井寺の法輪院は、きのう今日、にわかに
「法輪院御所」 とあらためて敬称されだした。 法輪院は、堂塔坊舎六百三十七宇
もあったというそのころの園城寺おんじょうじ
地域ちいき ── つまり三井寺のうちの一院にすぎない。位置は、本坊から西北の峰にわって、矢走やばせ
、打出ヶ浜、唐崎など、琵琶湖のなぎさは、ほとんど、眼の下にある。 そこが、御所と呼ばれ出したのは、数日前から、やごとなきお方の住居にあてられたためであろう。同時にまた、峰の道日々、林の木蔭、門や檜垣ひがき
の木戸まで、薙刀なぎなた の光と僧兵の姿を見ない所はなく、御所というより寺房とよぶより、むしろ僧兵の本営と言った方が、ふさわしい。 「宗信宗信。──
法親王には、今日もついに、ここを訪のうて見えぬ。そも、どうしたことか」 三条高倉の御所を落ちて、ここへ身を隠された以仁王もちひとおう
は、数日のまに、御気性も一変したような猛々たけだけ
しさを示しておられた。 生活、環境、昨日までとは、まるで違う。薄い藤色のお袖の上には、よろいの胴を着込み、太刀を佩は
くなど、生まれて初めての御武装だろう。いつ討手を見るかも知れぬ不安にも気が立つのであろうし、自然、粗野がお体に沁し
みてくる。 「まことに、陽は傾きかけておるのに、今日もお見えなさいませぬな」 侍者の大夫佐たいふのすけ
宋信も、童の鶴丸も、宮と同じ半武装だった。 侍者じしゃ
の間ま にかしこまって、午下ひるさ
がりの峰の陽を、廂ひさし ごしにのぞきあげながら、宋信は、宮のお怒りをなだめるように答えた。 「僧綱そうごう
たちの評議も、毎日のこととか。そのため、つい、お暇もないのでございましょう」 「昨日も待った、一昨日も待ちわびた。来ぬなら来ぬ、会えぬなら会えぬと、申せばよいに」 「いや、法親王におかれても、日ごと、お胸もそぞろに、思し召してはおいででしょうが」 「なんの、こうして、同じ寺域の内にいながら、参ろうとすれば、参れぬことのあるべきか。・・・・そうだ、今日は、まろの方から出向こう。まろが出向くぶんには仔細しさい
もあるまい。そして弟に会ったうえ、しかと、寺中の向背を糺ただ
しおかねば」 宮の焦躁も御無理はなかった。 あれほど片腕とも信じていた円恵法親王 (以仁王の異母弟)
は、宮がたどり着いた夜、大勢とともに迎えただけで、その後は、ここへ姿を現さない。 三井寺長吏の住房、円満院の屋根は、ここから見えるほどなのに、なぜ来ないのか。 そてを阻はば
める力が、両者の接近を遮さえぎ
っているものとは分かりすぎている。── 何しろ、一山の論議はまだ完全に統一されていず、下法師しもぼうし
大衆は、奈良、叡山へよびかけて、すこぶる積極的だが、主脳の僧綱そうごう
たちには、依然、平家を強大視している風が強い。いや、平家の内に帰依者をもって、日ごろ、祈祷きとう
や加持かじ に通い、愛顧を受けている阿闍梨あじゃり
、律師りっし も少なくはない。 だが、それにしてもと、宮は思う。 法親王は、一山の長吏なのだ。強い態度をとれない地位ではない、しかも下法師大衆はそれを支持し、合戦を望んでいる。また、自分はすでに、令旨を諸国の源氏に発し、ふたたび戻ることのない一線を踏み越え、一命も賭して、ここへ臨んでいるものを
── と、ジリジリ思われる。 「あ。お待ちなされませ」 宗信は、あわてて、宮の起た
って行かれる先へまわって、両手をついた。 「訪う、訪わるるは、いずれにせよ、法親王の御周囲にも、いかつげなる法師武者があまた、円満院の出入りを睨にら
まえておりまする。万が一にも、通せ通せぬなど、揉も
み争うことにでもなりましては」 「・・・・・・」 「さなきだに、ここはむずかしいおり。内紛は、敵の乗じるところでもありますゆえ」 「鶴丸。──
あの、小枝さえだ の笛を持ってまいれ、小枝さえだ
を」 ふと、考え直されたらしく、宮は、笛袋を手に取ると、法輪院の庭門を出、山路を黙然と登って行かれた。 |