〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (七) ──
だん きょうまき

2013/08/17 (土) 笛 と 蛇 (一)

三井寺の法輪院は、きのう今日、にわかに 「法輪院御所」 とあらためて敬称されだした。
法輪院は、堂塔坊舎六百三十七 もあったというそのころの園城寺おんじょうじ 地域ちいき ── つまり三井寺のうちの一院にすぎない。位置は、本坊から西北の峰にわって、矢走やばせ 、打出ヶ浜、唐崎など、琵琶湖のなぎさは、ほとんど、眼の下にある。
そこが、御所と呼ばれ出したのは、数日前から、やごとなきお方の住居にあてられたためであろう。同時にまた、峰の道日々、林の木蔭、門や檜垣ひがき の木戸まで、薙刀なぎなた の光と僧兵の姿を見ない所はなく、御所というより寺房とよぶより、むしろ僧兵の本営と言った方が、ふさわしい。
「宗信宗信。── 法親王には、今日もついに、ここを訪のうて見えぬ。そも、どうしたことか」
三条高倉の御所を落ちて、ここへ身を隠された以仁王もちひとおう は、数日のまに、御気性も一変したような猛々たけだけ しさを示しておられた。
生活、環境、昨日までとは、まるで違う。薄い藤色のお袖の上には、よろいの胴を着込み、太刀を くなど、生まれて初めての御武装だろう。いつ討手を見るかも知れぬ不安にも気が立つのであろうし、自然、粗野がお体に みてくる。
「まことに、陽は傾きかけておるのに、今日もお見えなさいませぬな」
侍者の大夫佐たいふのすけ 宋信も、童の鶴丸も、宮と同じ半武装だった。
侍者じしゃ にかしこまって、午下ひるさ がりの峰の陽を、ひさし ごしにのぞきあげながら、宋信は、宮のお怒りをなだめるように答えた。
僧綱そうごう たちの評議も、毎日のこととか。そのため、つい、お暇もないのでございましょう」
「昨日も待った、一昨日も待ちわびた。来ぬなら来ぬ、会えぬなら会えぬと、申せばよいに」
「いや、法親王におかれても、日ごと、お胸もそぞろに、思し召してはおいででしょうが」
「なんの、こうして、同じ寺域の内にいながら、参ろうとすれば、参れぬことのあるべきか。・・・・そうだ、今日は、まろの方から出向こう。まろが出向くぶんには仔細しさい もあるまい。そして弟に会ったうえ、しかと、寺中の向背をただ しおかねば」
宮の焦躁も御無理はなかった。
あれほど片腕とも信じていた円恵法親王 (以仁王の異母弟) は、宮がたどり着いた夜、大勢とともに迎えただけで、その後は、ここへ姿を現さない。
三井寺長吏の住房、円満院の屋根は、ここから見えるほどなのに、なぜ来ないのか。
そてをはば める力が、両者の接近をさえぎ っているものとは分かりすぎている。── 何しろ、一山の論議はまだ完全に統一されていず、下法師しもぼうし 大衆は、奈良、叡山へよびかけて、すこぶる積極的だが、主脳の僧綱そうごう たちには、依然、平家を強大視している風が強い。いや、平家の内に帰依者をもって、日ごろ、祈祷きとう加持かじ に通い、愛顧を受けている阿闍梨あじゃり律師りっし も少なくはない。
だが、それにしてもと、宮は思う。
法親王は、一山の長吏なのだ。強い態度をとれない地位ではない、しかも下法師大衆はそれを支持し、合戦を望んでいる。また、自分はすでに、令旨を諸国の源氏に発し、ふたたび戻ることのない一線を踏み越え、一命も賭して、ここへ臨んでいるものを ── と、ジリジリ思われる。
「あ。お待ちなされませ」
宗信は、あわてて、宮の って行かれる先へまわって、両手をついた。
「訪う、訪わるるは、いずれにせよ、法親王の御周囲にも、いかつげなる法師武者があまた、円満院の出入りをにら まえておりまする。万が一にも、通せ通せぬなど、 み争うことにでもなりましては」
「・・・・・・」
「さなきだに、ここはむずかしいおり。内紛は、敵の乗じるところでもありますゆえ」
「鶴丸。── あの、小枝さえだ の笛を持ってまいれ、小枝さえだ を」
ふと、考え直されたらしく、宮は、笛袋を手に取ると、法輪院の庭門を出、山路を黙然と登って行かれた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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