〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (七) ──
だん きょうまき

2013/08/16 (金) ぬえ (四)

所は、五条大納言那綱の館。
そこにも、守護の兵を要する。西八条も、手薄には出来ない。
「三井寺への発向は待て」
と、清盛からの使いが、知盛、重衡の陣へ急いだのも、そのためだった。
知盛は気が短い。公達中での荒武者でもあった。
「どうした、近衛河原を見にやった先の桐生きりゅう 六郎は」
「まだ、駈け戻りませぬ」
「もう一名、たれか行け。那波太郎、見てまいれ」
一騎、また霧雨の闇を、駈けて行く。
すると、駈けちがいに、陣へ飛び込んで来た武者がある。知盛が、
「六郎か」
と、叫ぶと、
「いや、佐貫さぬきの 四郎大夫に候う」
と、その者は、近づいて来て、
「八条室町の仮御所へ、使いの道すがら、いあたる所で、 な風説を耳にいたしました」
「どんなうわさを」
「近く、平安の都を廃し、みかど は申すに及ばず、公卿くげ 百官も、西八条も、六波羅も、ことごとく福原の地へ移され、福原こそ、新たな都になろうぞと、みないい騒いでおるのでございまする」
「なに、都を福原へうつ すと。・・・・ば、ばかな、たれが、そのような」
「いえ、兄君、根のないうわさではありませぬ」
「重衡、ことは、聞いておるのか」
「ちらと、数日前の御密談に」
「相国のお口から?」
「はい、ちち 禅門のおことばの端に」
「心得ぬことだ。そんな重大事が、よし相国のお口ぶりにうかがわれたとは申せ、御密談の席のことが、どうして、はやくも、ちまたなどに聞こえているのか」
「さ・・・・。その儀は」
「だらしがないぞ、近ごろのわれら一門は。まるで秩序がない。機密も保てない。どうして、そんなことで合戦に臨まれるか」
「若年の重衡は、よう存じませぬ。政治まつりごと のうえの深い御秘事は」
「おことに言っているのではない。腹が立つのだ、おれは無性に。・・・・何者か、一門のうちにも、骨なしがおるやに思われて」
青白い知盛の横顔が、そのとき、ほの赤く見えた気がした。おやと、人びとの眸は、空を振り仰いだ。
「あっ、火の手」
全陣、たれもが、同じ声を突然上げた。方角は、加茂の上流。ぼうっと、いちめんに霧雨の闇を赤くし、ほのお は、見る間に、大きくなった。
その時、二騎一緒に、近衛河原から駈け戻って来た。那波太郎と桐生六郎である。二人は、知盛、重衡に前へ来て叫んだ。
「頼政父子を初め、一族六十数名の者、御陣へ参ずると見せかけ、にわかに、道を変えて、三井寺へ駈け言った由にございまする」
「近衛河原の館も、梨ノ木の仲綱の家も、あれ、あの如く、みずからの手で焼き払い、うしお の如く、駈け急いで去ったとか」
知盛は、余りに、自分の予感が当たりすぎて、かえって、茫然ぼうぜん といかけたが、燃えさかるかなたの火に、そのひとみ を焼かれると、ぼつ然と、駒のあぶみを踏ん張って口惜しがった。
「なに、三井寺へはし ったと。・・・・あの老いぼれのみか、仲綱も、兼綱までもか。ええ、飼い犬に手を まれたとはこのことよ。父禅門が聞こしめさば、どんなお顔をなされようぞ。おれはもうばからしくて、いや、お気の毒で、父相国のお姿を見るにも堪えぬ。── 重衡、おこと行って来い。すぐ西八条へ行け。そして頼政一族を追い討つこと、三井寺めへかかること、二ヶ条、みゆるしあれと、お願いしてまいれ」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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