また、この数日間。 輿や牛車や、あるときは、鎧武者の隊伍
もともに、蹴上けあげ を越え、三井寺と六波羅とのあいだに、往来がしきりなのは、別当時忠の使者や、関白基通の使いが、入道相国の命を受けて、 (宮を、寺より出し奉るように) と、政治的な折衝に通かよ
うものと、時局の相すがた までを、庶民の眼は、じっと、心配そうに見ていた。 ──
二十日、二十一日と、日がたつに従い、都邑とゆう
は、険悪を増し、いやな風声まで加えて来た。 特に、二十一日は、武者の足つきが早くなり、牛車の牛は、例外なくムチで尻しり
をたたかれていた。午ひる まえには、三井寺法師の一群と、僧綱そうごう
らしき面々が、緊張しきった顔をそろえて、六波羅を訪い、それが大津へ引き揚げたころ、突如、 「ならの興福寺大衆と、春日の神人じにん
たちが、数千の僧兵を率い、都へ押して来るそうな」 という風説が立った。まるで砂塵さじん
のように、それはちまたへ広がった。 「こんどこそ、ただではすむまい」 市いち
の棚たな は、ごった返した。細民町では、子どもの悲鳴や、女、老人などの癇かん
だかい声が立ち始める。命あっての物種ものだね
よと、喚わめ き合う声々なのだ。さりとて、糧かて
も持たねば、荷も負えるだけ負わなければ、どうして山野で生きつづけられよう。それにも血迷う人びとだった。 だが、大路を飛ばして行く騎馬武者には、右往左往な細民の影など、草木の驚きとも見えないらしい。東奔西走、何事かを、武家諸門へ、伝令していた。 その日、六波羅と三井寺との、政治的交渉も、 (宮には、断固として、出で給う思し召しはない、諸事、これまで) と、打ち切られていた。 ついに、入道相国の令は、一族の門へ向かって発せられた。軍勢の催促たるはいうまでもない。ちまたに轟く縦横な悍馬かんば
のひづめも、 「三井寺を攻めよ。宮を捕えよ」 との動員ぶれの声に聞こえた。 将には、宗盛、頼盛、維盛、資盛、重衡、清宗など、みな出陣の命を受けた。 中には大病あがりなので、通史にもれていた知盛までが、 「やわ、この大事を、家にいて、見過ごせようか」 と、六波羅広場へ、駈け集まった。 しかし、これらは、一門の将星である。以下の直臣、族党の輩は、名も挙げきれない数だった。そして、出陣ぶれは、五月二十一日の夕迫るまで、なおかなたこなたを駈けていた。 その夕べ。 近衛河原の頼政の門へも、 「子ね
ノ刻こく (零時)
までに、六波羅広場へ出で合い給え。一手は、南都の防ぎにむかい、一手は三井寺を攻むるにて候う」 と、相国の令を、達して来た。 |