信連の影は、口に丹
を見せた毘沙門天びしゃもんてん
のようだった。 「宮は御所にいらせられず、おん物詣ものもう
でに候うぞ。何事ぞ騎馬弓箭きゅうせん
をもって、み庭を蹴荒らすは」 「だまれ、そのような偽りに、たれが耳をかそうや」 出羽判官光長も、馬上から言い返した。 「この御所ならで、どこに、お在わ
すべき所があろう。やよ、つわもの。そこなる下臈げろう
を斬って捨て、大殿おおどの 下屋しもや
のすみずみまで、床を剥は いでも、宮を捜し出せ」 庁兵に、金武かねたけ
という大剛の者がいた。その金武が 「おうっ」 と吠ほ
えて、欄干へ跳びついたのを見、十四、五人の兵がいちどに大床へ躍り上がった。 五月十五日の月は、大廂おおひさし
から斜めにさし入り、広縁、長廊にわたる乱戟らんげき
の光と、跫音あしおと と、よろいの響きに、何かそこだけを、嵐にひらめく稲妻かのように見せた。 たちまち、そこらは血に染んだ。血の色は碧あお
光りして、不気味な微虫のかたまりみたいに、床をはった。信連の太刀は、幾人かを斬り伏せ、ついには鍔元つばもと
から折れてしまった。 そこで彼は、自刃を思ったが、帯びていた鞘巻さやまき
(差添え) も失くし、ぜひなく裏門から逃げようとした。けれど、追い迫って来た雑兵の搭とう
(熊手に似た武器) に掛けられて、築土のみねから引き落とされた。 こうして、乱れ入った軍兵も、結局は、彼一人を搦から
めただけで、宮を見出し得なかったのはいうまでもない。 信連は、高手小手に縛いまし
められて、六波羅へひかれた。 彼を大庭へひきすえさせて、やがて、糾問きゅうもん
に当ったのは、前さきの 右大将宗盛だった。 「なんじ、宣旨のみ使いに対し、なんで、太刀をふるい、多くの兵を殺傷したか」 宗盛が、こういうと、信連は言下に、 「当節の流行とて、宣旨宣旨と申しては、窃盗せっとう
、山賊、強盗に輩やから まで、騎馬弓箭きゅうせん
をもって、諸家へ押し入るとか、聞き及んで候う。されば、こよいの者どもも、その群盗なるべしと所存して、斬ったるまでのことにて候う。── さまで、宮の御在所をお求めなれば、何ゆえ、礼儀を知ったる良き侍さむらい
ばかりを、お差し向けあらざりしか。・・・・さても、惜しきことをば」 と、あざ笑った。 しかも、宮のお行方については、この男、おくびにも、泥を吐く気色ではない。 持て余して、宗盛は、 「憎いやつ。夜明けを待って、市を引き回し、河原において首こうべ
を刎は ねろ」 と、いい渡した。 ところが、西八条の清盛は、
「あの大剛たいごう の信連かよ、殺すには惜しい」
としきりに言った。 信連がまだ禁裏の滝口にいたころ、一夜、蔵人所くろうどどころ
へ群盗がはいった。そのおり、大番衆おおばんしゅう
(諸国から交代に上洛して禁中を守る武士) さえ防ぎかねた賊徒を、信連が、二条堀川まで追って行き、賊の四人を斬り、一人を手捕りにして帰ったということもある。 清盛は、それを覚えていたものか、早晩、早馬を六波羅へやって、 「ひとりの信連を、討ったとて、生かしたとて、どれほど事態に変わりがあろう。あたら男、伯耆ほうき
の日野へ追い流せ」 と、助命の沙汰を伝えさせた。 後に長谷部信連は、平家も亡んでから、梶原景時かじわらかげとき
のあつかいで、鎌倉殿 (頼朝) に謁えつ
し、以仁王もちひとおう が御所脱出当時のもようなどを物語って、能登のと
の一郡に扶持ふち されていたという。 それは、後年のこと。──
ここに当夜、御所を襲うた平家のうちにも、平家にとって怖るべき者が交じっていたことを、六波羅でもまだ気づいていなかった。 たれかというに、検非違使尉けびいしのじょう
兼綱かげつな である。 職として彼が六波羅勢の中にいたのは不審でもなんでもない。けれど兼綱は、人も知るとおり、三位頼政の二男である。 すべては、後で分かったことだが、彼は、庁の武官なので、六波羅の発令は、外部のたれよりも早く耳にしていた。兼綱は、逸早いちはや
く、老父頼政のもとへ機密を密告しておき、それから御所へ駈け向かったものだった。 |