〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (七) ──
だん きょうまき

2013/08/12 (月)  でら 入 り (二)

信連の影は、口にたん を見せた毘沙門天びしゃもんてん のようだった。
「宮は御所にいらせられず、おん物詣ものもう でに候うぞ。何事ぞ騎馬弓箭きゅうせん をもって、み庭を蹴荒らすは」
「だまれ、そのような偽りに、たれが耳をかそうや」
出羽判官光長も、馬上から言い返した。
「この御所ならで、どこに、お すべき所があろう。やよ、つわもの。そこなる下臈げろう を斬って捨て、大殿おおどの 下屋しもや のすみずみまで、床を いでも、宮を捜し出せ」
庁兵に、金武かねたけ という大剛の者がいた。その金武が 「おうっ」 と えて、欄干へ跳びついたのを見、十四、五人の兵がいちどに大床へ躍り上がった。
五月十五日の月は、大廂おおひさし から斜めにさし入り、広縁、長廊にわたる乱戟らんげき の光と、跫音あしおと と、よろいの響きに、何かそこだけを、嵐にひらめく稲妻かのように見せた。
たちまち、そこらは血に染んだ。血の色はあお 光りして、不気味な微虫のかたまりみたいに、床をはった。信連の太刀は、幾人かを斬り伏せ、ついには鍔元つばもと から折れてしまった。
そこで彼は、自刃を思ったが、帯びていた鞘巻さやまき (差添え) も失くし、ぜひなく裏門から逃げようとした。けれど、追い迫って来た雑兵のとう (熊手に似た武器) に掛けられて、築土のみねから引き落とされた。
こうして、乱れ入った軍兵も、結局は、彼一人をから めただけで、宮を見出し得なかったのはいうまでもない。
信連は、高手小手にいまし められて、六波羅へひかれた。
彼を大庭へひきすえさせて、やがて、糾問きゅうもん に当ったのは、さきの 右大将宗盛だった。
「なんじ、宣旨のみ使いに対し、なんで、太刀をふるい、多くの兵を殺傷したか」
宗盛が、こういうと、信連は言下に、
「当節の流行とて、宣旨宣旨と申しては、窃盗せっとう 、山賊、強盗にやから まで、騎馬弓箭きゅうせん をもって、諸家へ押し入るとか、聞き及んで候う。されば、こよいの者どもも、その群盗なるべしと所存して、斬ったるまでのことにて候う。── さまで、宮の御在所をお求めなれば、何ゆえ、礼儀を知ったる良きさむらい ばかりを、お差し向けあらざりしか。・・・・さても、惜しきことをば」
と、あざ笑った。
しかも、宮のお行方については、この男、おくびにも、泥を吐く気色ではない。
持て余して、宗盛は、
「憎いやつ。夜明けを待って、市を引き回し、河原においてこうべ ねろ」
と、いい渡した。
ところが、西八条の清盛は、 「あの大剛たいごう の信連かよ、殺すには惜しい」 としきりに言った。
信連がまだ禁裏の滝口にいたころ、一夜、蔵人所くろうどどころ へ群盗がはいった。そのおり、大番衆おおばんしゅう (諸国から交代に上洛して禁中を守る武士) さえ防ぎかねた賊徒を、信連が、二条堀川まで追って行き、賊の四人を斬り、一人を手捕りにして帰ったということもある。
清盛は、それを覚えていたものか、早晩、早馬を六波羅へやって、
「ひとりの信連を、討ったとて、生かしたとて、どれほど事態に変わりがあろう。あたら男、伯耆ほうき の日野へ追い流せ」
と、助命の沙汰を伝えさせた。
後に長谷部信連は、平家も亡んでから、梶原景時かじわらかげとき のあつかいで、鎌倉殿 (頼朝) にえつ し、以仁王もちひとおう が御所脱出当時のもようなどを物語って、能登のと の一郡に扶持ふち されていたという。
それは、後年のこと。── ここに当夜、御所を襲うた平家のうちにも、平家にとって怖るべき者が交じっていたことを、六波羅でもまだ気づいていなかった。
たれかというに、検非違使尉けびいしのじょう 兼綱かげつな である。
職として彼が六波羅勢の中にいたのは不審でもなんでもない。けれど兼綱は、人も知るとおり、三位頼政の二男である。
すべては、後で分かったことだが、彼は、庁の武官なので、六波羅の発令は、外部のたれよりも早く耳にしていた。兼綱は、逸早いちはや く、老父頼政のもとへ機密を密告しておき、それから御所へ駈け向かったものだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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