男に違いない。女性にしては、余りに敏捷
な動作が、夜目よめ にも不審に思われた。 女房装束は召されていたが、後に思い合わせると、そのお人こそ、以仁王もちひとおう
であったのである。 侍者の宗信と、童も鶴丸だけを連れ、三つの人影は、つまづくような走りかたで、月光を避け、物蔭を縫い、三条高倉を北へ、たちまち、落ちのびて行かれたのだった。 では、この御所を平家の軍馬が取り囲む前に、しかも寸前に、どうして宮はそれを予知されていたか。一歩の差で、虎口ここう
を逃れ、三井寺へ落ちて行かれたかという疑問が残る。 ── それはまだ、宵の灯ともしごろであった。 宮は、侍者の大夫佐たいふのすけ
宗信むねのぶ と、ひそやかに、お居間にあった。 この宗信は、宮の乳人子めのとご
(乳母の子) であり、古くからの家職でもあったので、諸国の降くだ
したこんどの 「令旨りょうじ
」 も宗信には、起草の下書きまで、お示しになったほどである。── で、今も、半月ほど前にここを立った蔵人くろうど
十郎行家が、今ごろはどこの旅路にあることか。伊豆の頼朝を訪う日はいつか、などと語りおうておられたのだった。 そこへ侍童の鶴丸が、ひょこと、廊の御簾みす
の蔭に、かしこまって、 「ただ今、怪しげな文使ふづか
いが、これを投げ込んで逃げ去りました。名を問えど、名も告げず、ただ、おん前に御披露ごじろう
あれとのみ、言い捨てまして」 と、一通の結び文をさしおいた。あて名はない。披けとのみゆるしに、宗信が一見すると、思いがけなくも、三位頼政よりまさ
の筆である。それも、つねには見ない走り書きで、 |