〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (七) ──
り ん ね の 巻 (つ づ き)

2013/08/10 (土) けい  めい (三)

蔵人行家は、東国へ急ぐに先立って、その朝、逢坂山おうさかやま にほど近い三井寺へ立ち寄った。ここにいる以仁王の義弟おとと ぎみ円恵法親王にお会いし、また宮の令旨を示したであろうことは疑いもない。
行家は、すぐ、辞し去った。
しかし、寺中には、大きな衝動が残された。別当、権別当、僧正、長吏などの限られた首脳部会議が、数日に渡って開かれたらしい様子がある。
「令旨を奉すべきか、否か」
三井寺の態度を決するそれの密議とは、衆徒も、すぐ知ってしまった。
「さきに、三山連合の発起を称えながら、令旨を見て、なんの遅疑ちぎ か」
と、急進的な衆徒の一部は激昂げっこう し、彼らは早くも、単独で南都なんと 北嶺ほくれい の同志へ、機密をつたえた。
「いま、法皇は拘禁のおん身、院宣は仰ぐに仰ぎ難きも、王の令旨は、法皇のそれと同じぞ。すでに檄は諸国の源氏へ発せられた、東国の野に旗を見る日も遠くあるまい。年来、待望の日は来たというもの。三山のわれら衆徒も、旧事旧怨を忘れ、一体となって平家に当らずして、いつの日、平家の滅亡を見られようぞ」
と、色めきあった。
奈良大衆は、応じて来た。
けれど、このときもまた、叡山側には、躊躇ちゅうちょ の色があった。
山門大衆の間に、異論があるのか、あるいは、座主ざす 明雲の抑圧によるものか、とにかく、向背こうはい いずれとも、鮮明でない。
いまは躍起な三井寺衆徒だった。自己の首脳部は、強引に牽制けんせい していたが、他山の態度までは、どうにもならない。さいごの一と押しと、出かけて行った説客らちも、いまいましげに、立ち帰って来た。
「だめだ、どうにも、煮えきらぬ」
「平家から賄賂わいろ がまわった様子もみえる」
「朝廷の名をもって、近江米一万石、美濃絹三千匹、そのほか多くの金帛きんぱく が、谷々坊々へ配られたのはまことく らしい」
そう聞いた三井寺衆徒の腹いせであったかもしれない。数日後、交通の多い西坂本の口に、高札を立てた者がある。

山法師
味噌かひしほ か酒塩か
平氏 (瓶子) の尻に
つきてめぐれば
同じ落首は、洛内の壁や橋だもとなどにも書き散らされていた。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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