〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (七) ──
り ん ね の 巻 (つ づ き)

2013/08/10 (土) けい  めい (二)

以仁王はまた、行家に対し、わが令旨をたずさえて、諸国へ王使として下るからには、無官の新宮十郎では、人も信じまい、蔵人くろうど の資格で行けと、称をゆるされた。
「え、蔵人のみゆるしを」
身に余る光栄と、使命の重大さに、行家は、まったく、緊張しきっていた。
一応、頼政父子とともに、別室へ退 がり、彼は、その身なりを、山伏姿に変えた。
国もとの熊野新宮には、支配下の山伏も居、そも起居、作法、特有な山伏ことばなどには、精通している彼なので、不自然な風は、どこにも見えない。
「そのお身なりなら、いずこの関や平家の所領を通ろうと、よも、密使と思う者もありますまい」
と、仲綱は、いつもながら、行家の機智と、抜け目のない用意に、感服した。
まず、真っ先に、令旨をつたえる第一の源氏はたれたれか。
伊豆のさきの 右兵衛佐うひょうえのすけ 頼朝よりとも 、木曾の木曾冠者義仲が、指を折られる。源九郎義経は、余りに遠く、みちのくまでは足も伸ばし難いと思う。常陸源氏の信太三郎しのだのさぶろう 義教よしのり は、為義の子、そこへはぜひ賜わねばなるまい。
そのほか、どこの家々、どの族党へは、こうしてなどと、行家は頼政と、源氏揃のひょう によって、げき を飛ばす打ち合わせを遂げた。そして、坪口から草鞋わらじ をうがち、おい を負い、金剛杖こんごうづえ を手に、よそながら宮の御座所へもう一度お別れを告げて、ひと足さきに、三条高倉の門を、暁闇ぎょうあん にまぎれて出立した。
すぐあとから、頼政、仲綱も、帰って行き、外にいた兼綱たちの郎党も、見張りを解いてかき消えた。
まもなく夜がしら む。そして朝霧の四条、三条を、いつものように、行き交う市人や牛馬の影が、おぼろに描き出されて来た。けれど、高倉の忘られ人の御所の大屋根は、なお眠り沈んでいるように、木々の病葉わくらばしずく に打たれて、寂としていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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