〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (七) ──
り ん ね の 巻 (つ づ き)

2013/08/08 (木) 忘 ら れ 人 (五)

「三位殿」
人の声に、彼は、はっと我に返った。
相ノ少納言惟長これなが である。
「見えられました、ただ今」
「宮が」
「いや、新宮十郎殿で」
「おう」
頼政は、その惟長これなが のあとから、跛行びっこ をひいて入って来た十郎行家を見、
「待ちかね申した。もしや何かの支障さわり かと」
「いや、大原は早く出たなれど、放免くさ い者が後に見えたので。それを途中でまくために」
「いつも、細心なお気づかい。そのお心構えを、宮にも、一方ならず御信頼あそばしておられる」
「しかし、御門外では、御二男兼綱殿に、おどろかされ申した」
「兼綱が、なんで」
「怪しい者と、あわや、自分へ組みつかれんとして」
「それは、頼政の抜かりでおざった。先にお見えのこととにみ思い込み、兼綱へ申しおくのを忘れていた。年はとらぬと思いながら、やはりどこかに年は っておる」
「おことばは、士気をくじく。三位殿こそは、味方の諸葛孔明しょかつこうめい帷幕いばく寿星じゅせい とも、頼みにしておるものを」
「ははは、お案じには及ばぬ、陣中はべつ」
蔵人の間の柱で、鈴が鳴った。
宮のお召しらしい。
召しにこたえて、たれかが小刻みな跫音あしおと で奥へ消えて行き、やがてまた惟長が見えて、何か小声で眼くばせした。
頼政、仲綱、行家の三名は、にわかに、身をひきしめ、粛となって、宮の御座おまし ある所へ、惟長に従って行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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