とまれ、人びとは重盛の快復をを見て眉をひらいた。平家のためにも安堵
した。しかし、重盛自身の思いは、おのずから別であった。 彼は間もなく熊野へ旅立った。そして心ひそかに 「これが今生の最後の参詣さんけい
になるであろう」 としている参籠さんろう
の願いも果たした。 海山の旅路も、どうやら無事に、重盛はやがて都へ帰ってきた。その帰るさ、福原にも立ち寄り、父の清盛とも会って、ひと夜を沁々しみじみ
と語り合った。今は思い残すところもないとしているらしい彼の姿だった。 そうして彼が、 (── 自分の死期も遠くない) と悟さと
って、ある心支度をしていたのは事実である。それは自然、周囲の者へも、映らずにはいなかった。 いや、ちまたの京雀きょうすずめ
は、それについても、いろいろな取沙汰を交わしていた。さきに重盛が吐血したことも、あれほど秘密にされていたが、いまはたれ知らぬ者はなく、 「もし小松殿が亡な
くなられたら、おそらく、平家は幾年も持つまい」 などというささやきも、随所に聞かれるほどであった。 重盛の人望は、父の相国にもないほどのものがある。貴族たちや僧侶の間でも、重盛を悪く言う者はほとんどない。 ──
が、なんとなく、彼の死が待たれるような眼で見られているのは、彼への同情以上に、彼亡きあとの平家内部の均衡の破れや、必然に来る現状の変化に ── 天あま
の邪悪じゃく な人心が底流に動いているためであろう。 あるいはまた、例によって、つねに機会を利用しては流言蜚語りゅうげんひご
を放つことを忘れない反平家の貴族や僧徒たちが、こんども眼に見えぬところから “蔭の声” を放っているのかも知れない。 やがて、だれいうとなく、こんなことを、まことしやかに言う者が出始めた。 「小松殿の熊野詣は、わが一命をちぢめ給えと、みずからの死を祈るためであったそうな」 また、別な
“蔭の声” もする。 「あの君は、かねてより、父入道に謀叛むほん
の心あるを知り、熊野帰りの後は、物も食は
み給わず、ひたすら、死なばやと、食しょく
を絶ってい給うとか」 そのほか、いろいろなうわさがちらばった。 中には、手の混んだのもあって、近ごろ、重盛が夢を見たなどという夢話まで伝えられた。 その夢というのは。 重盛が、伊豆の名神へ詣まい
ったところ、門のわきに生々なまなま
しい坊主首が曝さら し物にされている。
「あれは、たれの首ぞ」 と、寺僧に訊ねたところ、僧は指さして 「あれなん、前さき
の太政入道殿の御首にて候う」 と、小気味よげに笑ったと見て、眼がさめた。 翌朝、重盛はこれを、家臣の妹尾太郎兼康に話した。すると、兼康もまた、同じ夜に、それと同じ夢を見たといい、 (異い
なこともあるものかな。人にはいうな) と主従して天の夢告に、恐れおののいた ── というのである。 こんな見えすいたうそさえ、無批判な衆愚のあいだには、化け物のような作用を持ち、なんとなく平家の運命に、不吉な予感を抱き始める者が殖ふ
えてきたのは是非もないことだった。そして重盛が、父入道の大それた望みを悲しむのあまり、自らの死を祈り、食も絶ったというちまたのささやきに、もうたれひとり疑ってみる者もなかった。 |