〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (六) ──
御 産 の 巻

2013/07/28 (日) み じ か 夜 の 門 (二)

もっとも、まるで火のない所に煙は立たない道理で、巷間こうかん の取沙汰にも、多少の拠り所がないとはいえない。
その一つは、重盛の落飾らくしょく である。彼が、髪をおろし、法名を浄蓮じょうれん とあらためて、法体ほったい になったのは、五月五日のことである。
第二には。── ちょうどそのころ来朝した宋の名医があった。朝夕、福原にあっても、彼の病状を気づかっていた清盛が、 「なんとしても、いちど てもらえ」 と、さし向けて来たが、重盛は今度も、かたくこば んで、ついに診せずに返したということがあった。
それと、決定的に、
「小松殿、御危篤」
と、いよいよさわ がれ出したのは、六月二十一日、後白河法皇が、小松谷へ御幸して、親しく重盛のやまい をお見舞いになってからである。── すわ、今日明日にもと、人びとは気をまわしたものらしい。
けれど、それからなお、一ヶ月以上も、重盛は生きていた。
絶食のうわさが嘘であることは、その一事だけでも、明らかである。
ただ重盛の病なるものが、いったい何病であったのか。その時代の医智識では、解釈できなかったには違いない。思うに、今で言う胃潰瘍いかいよう といったようなものであったろう。年々に食が細り、痩せて来て、しまいには吐血した ── という症状などからも考えられる。
いずれにせよ、死は、ついにこの人を訪れた。
それは、治承三年七月二十九日 ── 短い夏の夜の明け方だった。
父の清盛に先立って、彼の生涯もまた短過ぎたといってよい。年は、まだ四十二であった。
公卿日記などには、一説として、
   “去夜、スデニミマカ ル”
ともしてあるが、あるいは、平家内部の事情だの、世情への影響なども見合わせて、数日は、喪を秘していたかも知れない。── またそんなうわさも、流言の一つであったかも分からない。
とにかく、重盛の死は、平家一門の上に、一抹いちまつ の哀愁と、そして沈痛な反省を与えた。これだけは確かである。── その全盛、その栄花が、咲きみち、咲き誇って、今や、そよ風にも散りそうな時節へ来ていたため、一門の男女の胸を吹き抜けたものは、いとど冷たい無常であったにちがいない。
「仕方がないわさ。後になるも、先になるのも、人の寿命ぞ」
こんなとき、たれよりも意気地なく、体にまで、こたえてしまうのは、清盛だった。そのくせ、口では、悟りきったような薄ら笑いをゆがめて言う。
みしこれが十年も前の彼だったら、手放しで、大泣きに泣くだろう。元来、そういう人前は飾らないたち の清盛だからである。── が自分が後継者としての重盛は、次第に、頼み難い病弱となってゆき、ついに今日、この老父を残して先立ったとなると ──
(ここで、おれが老いを見せては)
と、さあらぬてい をもち支え、しいて他の涙をしかる役になってしまうのだった。
彼の、こうした気持を裏返してみると、やはり重盛の生きている間は、たとえ病人でも、退官はしても、なお多分に、重盛を、ある心だの みと、していたには違いない。
法皇と清盛との中間にあって。
また、清盛と摂関家との間にあっても。
さらに、南都の興福寺大衆や、その他の反平家方というものに対しても、重盛には、人望みたいなものがあった。── 親から言わせれば ── 無能なるがために、と言えもしようが、とにかく、平家を憎む相手方から、良く言われてきたのは、重盛だけである。
いわば、重盛は、ひとつの緩和地帯であったのだ。
平家と反平家との、いつでも火を呼びそうな両勢力の絶えない摩擦まさつ も、なんとか、表面だけにせよ、ここまで円満に運んで来たのは、重盛という病人の隠然たる地位と余徳であったといってよい。
(もう、その緩和地帯はなくなった)
清盛は、病人の一子から受けていた生前の徳孝を知っている。── 親の自分にないものを持っていた重盛であったことを。
これからは、それがない。ひとたび、自分の短所があらわれ、院との間に、あるいは南都とのあいだに、紛争を起こせば、今度こそは、消してもなく、燎原りょうげん の火となってしまいそうに思われる。
(重盛の持っていたもの。それを、子にまな んで、おれも持たねばならぬ)
六十二歳で、世継よつ ぎに先立たれたこの老父は、まぶた煩悩ぼんのう をえがくたびに、ひとり心のうちでつぶやいた。
この夏、福原の海は荒れがちで、宋船の来泊も途絶え、入道の眉には、白いものが、幾すじか えていた。そして、さしも物事に まない質の彼にも、おりおり、うつろな姿を見ることがあった。彼が、壮志を抱いてよくここを往来した弱冠のころも、また今も、大輪田の浪音や松風は変っていないはずであるが、ことしは、山荘の寝所に通うそれまでが、違うものに聞こえていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ