もっとも、まるで火のない所に煙は立たない道理で、巷間
の取沙汰にも、多少の拠り所がないとはいえない。 その一つは、重盛の落飾らくしょく
である。彼が、髪をおろし、法名を浄蓮じょうれん
とあらためて、法体ほったい になったのは、五月五日のことである。 第二には。──
ちょうどそのころ来朝した宋の名医があった。朝夕、福原にあっても、彼の病状を気づかっていた清盛が、 「なんとしても、いちど診み
てもらえ」 と、さし向けて来たが、重盛は今度も、かたく拒こば
んで、ついに診せずに返したということがあった。 それと、決定的に、 「小松殿、御危篤」 と、いよいよ噪さわ
がれ出したのは、六月二十一日、後白河法皇が、小松谷へ御幸して、親しく重盛の病やまい
をお見舞いになってからである。── すわ、今日明日にもと、人びとは気をまわしたものらしい。 けれど、それからなお、一ヶ月以上も、重盛は生きていた。 絶食のうわさが嘘であることは、その一事だけでも、明らかである。 ただ重盛の病なるものが、いったい何病であったのか。その時代の医智識では、解釈できなかったには違いない。思うに、今で言う胃潰瘍いかいよう
といったようなものであったろう。年々に食が細り、痩せて来て、しまいには吐血した ── という症状などからも考えられる。 いずれにせよ、死は、ついにこの人を訪れた。 それは、治承三年七月二十九日
── 短い夏の夜の明け方だった。 父の清盛に先立って、彼の生涯もまた短過ぎたといってよい。年は、まだ四十二であった。 公卿日記などには、一説として、 “去夜、スデニ薨ミマカ
ル” ともしてあるが、あるいは、平家内部の事情だの、世情への影響なども見合わせて、数日は、喪を秘していたかも知れない。── またそんなうわさも、流言の一つであったかも分からない。 とにかく、重盛の死は、平家一門の上に、一抹いちまつ
の哀愁と、そして沈痛な反省を与えた。これだけは確かである。── その全盛、その栄花が、咲きみち、咲き誇って、今や、そよ風にも散りそうな時節へ来ていたため、一門の男女の胸を吹き抜けたものは、いとど冷たい無常であったにちがいない。
「仕方がないわさ。後になるも、先になるのも、人の寿命ぞ」 こんなとき、たれよりも意気地なく、体にまで、こたえてしまうのは、清盛だった。そのくせ、口では、悟りきったような薄ら笑いをゆがめて言う。 みしこれが十年も前の彼だったら、手放しで、大泣きに泣くだろう。元来、そういう人前は飾らない質たち
の清盛だからである。── が自分が後継者としての重盛は、次第に、頼み難い病弱となってゆき、ついに今日、この老父を残して先立ったとなると ── (ここで、おれが老いを見せては) と、さあらぬ態てい
をもち支え、しいて他の涙をしかる役になってしまうのだった。 彼の、こうした気持を裏返してみると、やはり重盛の生きている間は、たとえ病人でも、退官はしても、なお多分に、重盛を、ある心恃だの
みと、していたには違いない。 法皇と清盛との中間にあって。 また、清盛と摂関家との間にあっても。 さらに、南都の興福寺大衆や、その他の反平家方というものに対しても、重盛には、人望みたいなものがあった。──
親から言わせれば ── 無能なるがために、と言えもしようが、とにかく、平家を憎む相手方から、良く言われてきたのは、重盛だけである。 いわば、重盛は、ひとつの緩和地帯であったのだ。 平家と反平家との、いつでも火を呼びそうな両勢力の絶えない摩擦まさつ
も、なんとか、表面だけにせよ、ここまで円満に運んで来たのは、重盛という病人の隠然たる地位と余徳であったといってよい。 (もう、その緩和地帯はなくなった) 清盛は、病人の一子から受けていた生前の徳孝を知っている。──
親の自分にないものを持っていた重盛であったことを。 これからは、それがない。ひとたび、自分の短所があらわれ、院との間に、あるいは南都とのあいだに、紛争を起こせば、今度こそは、消してもなく、燎原りょうげん
の火となってしまいそうに思われる。 (重盛の持っていたもの。それを、子に習まな
んで、おれも持たねばならぬ) 六十二歳で、世継よつ
ぎに先立たれたこの老父は、瞼まぶた
に煩悩ぼんのう をえがくたびに、ひとり心のうちでつぶやいた。 この夏、福原の海は荒れがちで、宋船の来泊も途絶え、入道の眉には、白いものが、幾すじか殖ふ
えていた。そして、さしも物事に倦う
まない質の彼にも、おりおり、うつろな姿を見ることがあった。彼が、壮志を抱いてよくここを往来した弱冠のころも、また今も、大輪田の浪音や松風は変っていないはずであるが、ことしは、山荘の寝所に通うそれまでが、違うものに聞こえていた。
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