いかに今、平家一門が、盛りを極めていたか。また、権勢に弱い人びとの媚
ぶるところとなったか。旧記にある “御産ニ依ツテ六波羅ヘ参ラセ給フ人々” ── の顔ぶれを列記しておくのも、あながち、むだではあるまい。 まず関白基房、太政大臣師長、左大臣経宗、右大臣月輪つきのわ
兼実かねざね 、内大臣小松重盛などの諸大臣をはじめとして。 左大将後徳大寺実定、源大納言定房、三条大納言実房、五条大納言那綱、藤大納言実国、按察使あぜち
資方すけかた 、中御門中納言宗家、花山院兼雅、中納言雅頼、権中納言実綱、藤中納言資長、池中納言頼盛、左衛門督さえもんのかみ
時忠ときただ 、検非違使別当忠親、左宰相実家、右宰相中将実宗、新宰相中将通親みちちか
、平宰相教盛、六角宰相家通、堀川宰相頼定、左大弁方、右大弁俊経、左兵衛督重教しげのり
、右兵衛督光能、皇太后宮大夫朝方、左京大夫長教、太宰大弐だざいのだいに
親宣ちかのぶ 、新三位実清などの
── 三十三人。 それ以下の公卿公達きんだち
は、どれほどか、記録されてもいない。 法皇には、簾中からしばしば、 「まだか」 と、あたりへ、訊ねられたり、 「時忠やある」 と、御産所に奉侍している平大納言を、近くに召されて、 「難産とみゆるの。──
修法しゆほう の僧侶そうりょ
へ、一ぱい励み候えと、つたえよ」 仰せもそぞろな御容子である。 修法の壇には。 夜来、仁和寺にんなじ
の守覚しゅかく 法親王、天台座主の覚快法親王、三井寺の房覚僧正などの群僧が、誦経ずきょう
の声をからし、孔雀経の法とか、八字文殊の法とか、おのおの一心不乱な法力を凝こ
らしていた。 護摩ごま
の煙は、棟むね をめぐる雲をなし、振鈴しんれい
のひびきは、池の氷も破るばかりである。 しかも、おん生う
ぶ声は、あがらない。 陣痛のあまりに、中宮のおん呻うめ
きが、かすかに、几帳きちょう
深きあたりからもれるばかりである。 諸人はみな、ようやく憂いをたたえ初めた。 つい法皇も、みずから加持の壇に向かって、護摩ごま
を焚た き、鈴れい
を振り、懸命に七仏薬師の法を修しゅう
せられた。 いかなる物の怪け
の障さわ りも払わんと遊ばす形相ぎょうそう
とおん声のうちに、常にはお見せにならない御気性の一面が、あらわに出た。何か、身の毛もよだつばかりな鬼気が濛々もうもう
と龍顔から昇り立った。 |