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── 新 ・ 平 家 物 語 (六) ──
御 産 の 巻
2013/07/23 (火) 御 産 絵 巻 (二)
かねて、お
妊娠
(
みごもり
)
と聞こえていた高倉天皇の中宮徳子は、この年六月二十八日に、
着帯
(
ちゃくたい
)
(いわた帯)
の
御儀
(
おんぎ
)
をあげられた。そして
産月
(
うみづき
)
も近づいたので、六波羅の
池殿
(
いけどの
)
に
設
(
しつら
)
えられた御産所へ移っていた。
つまり中宮を出て、里親の家で産むという例を取ったわけである。
ふつう庶民の間でも、産期が近づくと、妊婦は、
産屋
(
さんや
)
へ籠って、あらゆる物の
怪
(
け
)
を断つため、安産の
加持
(
かじ
)
祈祷
(
きとう
)
をうけるのが
慣
(
なら
)
わしだった。
ましてやお
后
(
きさき
)
であり、時めく入道相国のおん娘の
初産
(
ういざん
)
というので、産所の結構はいうまでもなく、日々の祈願、夜々の守りの物々しさなど、言語にたえるというほかはない。
治承二年の十一月十二日である。
この数日来、六波羅池殿を中心として、夜ごとの空は、
灯明
(
ほあか
)
りの
暈
(
かさ
)
に染められていたが、十二日の
丑
(
うし
)
ノ
刻
(
こく
)
(午前二時)
過ぎとおぼしきころ、にわかに、御産所は色めき立ち、
宿直輩
(
とのいばら
)
へも、
「中宮には、いよいよ
御産気
(
ごさんけ
)
づきますぞ」
と、ささやき伝えられた。
「さては、この
暁
(
あかつき
)
こそ」
「明け近うにこそ」
と、人びとは
騒
(
ざわ
)
めきたち、制しても制しても落ち着き得ない殿廊の
起
(
た
)
ち
居
(
い
)
や門前のどよめきが、洛中へまで、拡がって行った。
「中宮、
御産
(
ごさん
)
の
気
(
け
)
に伺われての候うぞ」
という使いが、諸大臣以下、公卿たちの門々へ、走ったのである。
わけて第一には、後白河法皇の法住寺
殿
(
でん
)
へ。
法皇はすぐに
御衣
(
ぎょい
)
を召しかえられ、御車の内へ移られた。
まだ明けぬ道の霜風はひと通りな寒さではない。けれど、中宮の御懐妊を前々からいたくお歓びだった法皇は、諸山へ安産の祈祷を命じ、もし、皇子が誕生したら、男山、
石清水
(
いわしみず
)
、平野神社へ、御幸の
礼詣
(
れいまい
)
りもしようとまで、
立願
(
りゅうがん
)
しておいでになったほどである。凍るばかりな御衣の前をかき合わせてのお
微行
(
しのび
)
も、ものともなさらぬ御容子であった。
「院にも臨幸あらせ給うぞ」
と、聞こえ渡るや、池殿の内は、なおさら色めきあった。
御車と前後して、関白基房も伺候した。
中宮の実父、平相国清盛は、いうまでもない。彼は、きのうも詰め、きょうも詰め、夜半からは、御産所を
隔
(
へだ
)
たる一
殿
(
でん
)
に籠ったきりで、わが娘の中宮と、その
陣痛
(
じんつう
)
をともにしているような顔をしていた。
かかる間にも、西面門や北門から、続々と、車が着く。
寝殿
(
しんでん
)
の西の
廂
(
ひさし
)
と北の間の簾中には、大臣たちが居ならび、南の間から、中門廊の三間には、
殿上人
(
てんじょうびと
)
の面々が、ひざを詰め合うばかり、参入していた。
なお、すわりきれないで、便宜上、中門外に立ち並ぶ者もあり、対ノ屋や泉殿まで、衣冠の人で埋まったということである。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
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