どういうものか、このところ、洛内には火災が多い。そして火事といえば原因はたいてい放火であった。 治承元年から二年へかけての現象である。それに強盗騒ぎとか、殺傷沙汰とか、血臭い事件も頻々
と聞こえ、なんとなく、為政者の治安に頼り切れないような不安が人びとの心に忍び込んでいた。 ちと、わずらわしいが、主なる実例だけをあげてみても、 |
「治承元年・十一月二十二日」 |
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「同十二月三日 |
左大臣藤原経宗ノ第ニ、強盗押入リ、倉ノ財物ヲ掠カス
メ去ル。 |
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「同七日」 |
左大臣家、近隣ノ家中ヘ、又々強盗入ル。──
オヨソ近日、京中ニオイテ、毎夜七、八ヶ所、或ハ十ヶ所、コノ厄ヤク
ニ逢ハザルハ無シ。乱代ランダイ
ノ兆テウ カ。 |
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「治承二年・正月六日」 |
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「三月二十四日」 |
七条高倉ヨリ朱雀ノ南北五、六町ニ及ブ間、焼亡ス。──
平俊盛卿、修理大夫信隆卿、左京大夫修範卿、三位中将知盛卿ノ家々、ナラビニ七条東洞院堂稲荷ノ旅所ナド、悉皆シッカイ
焼亡。 |
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「四月二十四日」 |
七条東洞院ノ北ヨリ出火、八条坊門、朱雀大路ヲ焼キ払ヒ、北大路ノ南ヘ至ルマデ、一夜ニ灰燼トナリ了ンヌ。去年、四月二十八日ニモ洛中大半ノ大火アリ。世上、去年ノ大災ヲ
“太郎焼” ト呼ビ、今年ノ大火ヲ “次郎焼” ト称ス。 |
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等々々、限りもないほど、当時の公卿日記には、火事、強盗、寺院同士の喧嘩けんか
などが、月並行事のように見える。 いったい、この原因は、何なのか。── どうした社会現象なのだろうか。 “太郎焼” といったり、“次郎焼” などと呼んで、依然、天才視しているのを見ると、無知な庶民は相変らず、天狗の仕業しわざ
みたいに考えて、巫女みこ や祈祷師きとうし
の言を、唯一の指針としていたらしく思われる。 いや、庶民層ばかりでなく、その点は、貴族も同列であった。 たとえば、このごろにわかに讃岐さぬき
の配所で薨こう ぜられた崇徳院すとくいん
へ諡おくりな を奉って、御霊みたま
を都へ迎え、お祀まつ り申し上げたりしたが、それなども、宮廷人のあたまには、何かにつけて、 (崇徳院のおん祟たた
りもや) という恐怖観念が、いまもって、抜け切れていない証拠である。 天災といえば、天候の不順も手伝っていた。去年は冷害で、作物の出来が悪く、今年はまた、春から旱魃かんばつ
であった。 「このうえ、二年つづきの飢饉ききん
となっては」 と、早くも諸国では、飢饉の恐怖が、大きな声となっている。 そこで各所の社寺へ、勅使はたびたび幣帛へいはく
をささげに立ち、また、治承二年六月二十一日から七日間、神泉苑しんせんえん
で、盛大な雨乞いの式も行われた。 大雨が降りつづいた。 「あらたかな、功力くりき
かな」 と、朝廷の臣は、宴を張って、万歳を唱え、庶民は眉をひらき、寺社は報酬を受け、祈祷きとう
の僧は、善智識と称たた えられた。 すると、福原に居た清盛は、これを聞いて、大いに嘲わら
ったということである。 「── 人の病気が癒なお
る時分に診み た医者は名医といわれる。ことしは、五月雨さみだれ
が遅れていたのだ。いやでも降りだすころになって雨乞いをしたから雨が降ったまでのことよ」 ── と。 おそらく事実であろう。彼らしい放言であるから。──
しかし、その清盛も、近ごろの人災天災になんの施策も見せてはいない。ただ平家の安泰と、子孫の繁栄のほか願いもないかのようであった。ようやく彼もまた、古今の英雄とか成功者とかいう者が行き着く晩生期愚に返って来たものであろうか。 時しも。 高倉天皇の中宮徳子のおん産う
み月は近しといわれ、清盛のあたまも、六波羅の時務も、そのことばかりにとらわれていた。 これらの門には、天災、人災もない。今を盛りの栄花が、常春とこはる
を誇っているようであった。 けれど、ほんとは、天災人災の連続こそ、司権者の致命になろう。無関係なはずはない。 答えは、時が来てみれば、余りにも分かりすぎていたことである。けれど、時の至る寸前までも、悟さと
れないのが、敵味方とも、人間の常であった。花は散る支度をし始めるときが、花の一生のうちで一番美しいし、盛りにも見える。 |