去年の六月末に、本国を離れて、今は七月半ば。ちょうど一年目である。 船が出る日まで、二人は
「俊寛の姿を見たら」 と思い、 「俊寛めが、浜へ来たら ──」 と、彼へ言ってやる言葉を肚
にためて待っていた。 けれど、船が纜ともづな
を解く間際まで、ついに俊寛は、姿を見せもしない。 「さては、余りのいまいましさと、失望の余り、洞ほら
にでもはいって、泣き吠えているのであろうよ」 せめての想像を語り合って、二人は笑った。 しかし、この明るい自分たちの笑い声に、冷やかな嘲蔑をこめて、高慢な俊寛に、思うさま、うらやませたり、煩悶はんもん
させてやることが出来ないのは、やはりなんだか、物足らない。 「── 出で来よ、俊寛」 「見よや、都へさして還るこの船を」 と、二人はなお、舷ふなべり
から島の浜辺をながめていた。 すると、やがて、俊寛らしい男が走って来て、浜の波打ち際に立ち、船へ向かって、手を振りぬいた」 「や、俊寛よ」 「おうっ、何か、わめいているわ」 「この期ご
になって」 「狂気やしつらん。都恋しと」 二人は、やっと、胸のつかえが下がったように、つぶやいた。 けれど、よくよく見ていると、俊寛は、泣き吠えてもいず、都恋しと、叫んでいるのでもなかった。 かれのそばに、いつもの黒髪の長い娘がいた。娘の肩を、片手に抱えて、しきりにあっちえよろよろ、こっちへよろよろしている様子は、どうやら酒に酔っているらしく見える。また、島の月夜によく踊る踊りの真似でもしているかのようであった。 そしてときどき、遠ざかる船へ、手を振って、声いっぱい、彼の怒鳴るのが、潮風のちぎれちぎれに、二人の耳へも届いてきた。 「阿呆あほう
よっ。── 阿呆の少将も、物乞いの康頼も、くだらぬ世間を恋しがって、性懲しょうこ
りもなく、ふたたび都のちまたで、憂き目をみるなよ。・・・・あはははは、鬼界ヶ島とは、どの方角と思うぞ。これからなんじらが帰る国こそ、その地獄よ。この極楽を捨てて去るとは憐れなばか者だ。俊寛こそは、またなき幸せ者と、都の亡者もうじゃ
どもへは告げておけ」 その後 ── 都へ帰った少将や康頼の口から、世間へ語り伝えられた俊寛との別れは、まるで違っていた。 俊寛僧都は、赦免の状に、自分の名がもれたのを、天に恨み、地に哭こく
し、船が纜ともづな を解くまぎわまで、乗っては下りつ、下りては乗っつ、半狂乱の態になった。 そして、船が、沖へ出た後も、小高い巌いわ
の上にとりすがって、 (あな、無情よ。乗せて行け、せめて、われを九州の端の地までなりと、具ぐ
して行け) と、泣きからしていたという。 聞く人々はみな、 (さも、あろう) と、たれひとり、疑ってみる者もなかった。 けれど、ここに、もと法勝寺の稚児ちご
で、有王丸という者がいた。年久しく可愛がられた主人の俊寛に、どうかして、いま一度会いたいと思い、数年の後、便船の伝手つて
を得て、島へ渡った。そして、俊寛を探し当て、積年の思いと、主従の真情をあたため尽して、ふたたび、都へ還って来た。 「僧都にお会いなされたそうじゃが、俊寛どのは、ただひとりで、どんなお暮らしをしておられたか」 有王に向かって、人が訊くと、有王はかならず、頭こうべ
を深く垂れたまま、 「はい、それはもう、蜉蝣かげろう
なんどのようにお痩や せになって、よばろい立つお力もありませんでした。そして、わたくしを見たおよろこびの極きわ
まりにや、半月ほどの後に、あえなく息をおひきとり遊ばしたのでございます。はい。・・・・御遺骸ごいがい
は荼毘だび に付し、ただ、おかたみの髪ばかりを、奈良の法華寺におわせられる姫君のため、持ち帰って参りました」 人はみな、俊寛僧都も、これでもう、この世の人ではないと、思ってしまった。そして指折り数えて、まだ三十六、七の若さなのに、と言ったりした。
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