『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 序の章 ==

1897年正月のことである。当時の 「大日本帝国海軍」 に山本権兵衛 (ゴンベエ) という海軍少将がいた。
年令はちょうど四十六歳。身の丈は五尺六寸あまり。肩をはって前方を直視しながら歩く。みるからに剽悍で、人をじっと見据える眼の光ガ鋭い。口もあごも頬も、濃いひげで一面に覆われている。めったに口を開かないが、一度ものを言い出すと言葉は溢れるように続いて、相手を説破するまで止めない。
立派な見識もあるし、肝もすわっている。海軍大将西郷従道 (ツグミチ) が大臣であったが、実権はほとんど全く軍務局長山本少将の任されていたから、文字どうりに彼は日本海軍の実力第一人者であった。

山本には稲子 (イネコ) という娘がいた。ちょうど十八才になる。もうお嫁にやる年頃だというので、若い将来ある海軍将校を選んで縁付けたいと思った。そのメガネにかなったのが、常備艦隊の後任参謀財部彪 (タカラベタケシ) 大尉であった。財部はもと児玉姓で、1889年に海軍兵学校を首席で出た秀才である。日向都の城の人だから、薩摩隼人の血を受けた山本には地理的にも近親感を覚えさせた。頭もいいし人柄も立派だし、艦隊参謀としての実地勤務もみごとだし、誰が見ても将来を期待させる青年だった。

縁談は進められた。内輪の間の話はほぼ内定した。だが財部大尉の心の中には、一つのかすかな不安が湧いていた。山本少将のことは色々な意味で尊敬している。その立派な人柄も、これに惚れ込んでいたその同窓上村彦之丞大佐からくわしく聞いていた。娘自身べつに難の打ちようはずもない。
た だ部内で、いま飛ぶ鳥を落とす勢いのあの軍務局長の婿になるということは、これから世に出ても、ことごとに義父の力で偉くなったという陰口を招くことになりはせぬか。
それは生涯気持ちの悪い何かを付きまとわせる・・・・そう思うと、ふつと憂鬱な気持ちに襲われて、財部はクラスメートのうち親しい何人かにこの不安を打ち明けた。

海軍兵学校の級友というものは、俺 (オレ) 貴様 (キサマ) という一見乱暴な言葉で結ばれながら、じつは血を分けた兄弟のように分け隔ての無い世にも睦ましい間柄である。
鹿児島の竹下勇 (テケシタイサム) や佐賀の向井弥一 (ムカイヤイチ) と、財部はことに親しかったが、やはり仲間になる九州男児のうちに、大分の広瀬武夫がいた。
広瀬は豊後竹田の生まれである。勤王で知られた筑紫の菊池家の血を引く岡藩の貧乏サムライの次男である。
父は裁判官だというが、父の任地飛騨の高山で小学校を終えてから、海軍将校の予備校とも言うべき東京の攻玉社に学んで、そのころ築地にある兵学校に入って来た。
ずば抜けた秀才というのではないが、気立てのさっぱりした男らしい男である。運動にかけては、ボートでござれ剣道でござれ、いつもクラスのチャンピオンである。柔道に熱心なところから、財部とは親しかった。
1888年の夏、兵学校が江田島に移った後も、副官八代六郎 (ヤシロロクロウ) 中尉の官舎の一間を道場にして、二人は講道館流の柔道をはげんだ。広瀬は既に初段で黒帯を許されている。 「俵投げ」 が得意で、同門の人はその技を 「大砲」 とあだ名して恐れていた。1893年には三段に進み、講道館内指折りの猛者だった。激しい気合で励ましあいながらいつか生まれた友情は、この二人の若者の心を強く結んだ。

財部大尉の気持ちを聞いた広瀬は、友の口からはとうていこの話を相手方に持ち出せないことを悟った。持ち前の侠気がむらむらと湧いて、即座に彼は、俺が話をつけてきてやると、単身、山本少将の邸を訪れた。
山本は、個性の強い異色ある人だから世間の誤解を一身に浴びて、毀誉褒貶さまざまな評判を持っていた。その鋭い判断と厳格な処置とで、海軍内部では恐れられていた存在であるが、公務と私事とをはっきり分けて、家庭ではよい父、よい夫であった。ロマンスのある妻を愛して、煙草も酒もあまりたしなまぬ。宴会にはほとんど出てこない。やむを得ない時には家で食事を済ませてからはじめて出席するというほど真面目な軍人である。
たいがい六時ごろ食事を終って八時半にはもう寝てしまう。そうした山本の生活ぶりは海軍内部では評判で、誰も皆知っていた。
しかるべき時間を見計らって、広瀬は山本邸の玄関に立った。

テーブルを挟んで二人は向かい合った。来客の時のきまりできちんと袴をつけていた山本は、この時初めて海軍大尉広瀬武夫という男を見た。五尺六寸ぐらいはあろうか。筋骨隆々とした立派な体格である。日に焼けた浅黒い顔は角張って、その上を一面に毘沙門髯がおおっている。たしかに風采は武骨な軍人である。ところが子供のように澄んだ目をしている。ふしぎに柔和で無邪気な感じの男である。
山本は我にも無く微笑した。じつさいこちらも警戒を解いて、思わず笑いたくなるような明るさを持っている男である。声は大きく朗らかだった。

「私は財部大尉の級友であります。閣下のお嬢さんとの結婚のお話について覗ったのであります」。
「その話はだいたい決まっているんだが、お前なにかそれについて言い分でもあるのか?」
「実はそのことであります。財部の気持ちでは、お嬢さんに何か申し分があるというようなことは絶対にないと思います。ただ閣下のお婿さんになるということが、果たして彼にとって好い事でしょうか。
私など級友としてみますと、あいつは人物からも才能からもきっと出世することは明らかな奴なんであります。放っておいても立派になれることが確かな奴なんであります。
それを今度閣下のお婿さんになると、将来あいつの実力で立身出世したとしましても、あいつはきっと山本閣下の婿だからああなんだなどと陰口を聞かれるに違いありません。そんなことになると、われわれ級友として心外であります。いかがでしょう、出来ればこの際このお話はすっぱり破談になすっていただけませんか」。

これには山本が驚いた。ちょっと腹も立った。でも人の恐れ憚る自分の前に来て、ひたすら級友のために弁じ、級友の将来を思うあまり、虎の尾を平気で踏むその侠気とその純粋な友情には理屈無しに打たれた。
彼は一時きつとなった顔を和らげて、言った。
「なるほど、そういうことか。すると、お前の心配するのは、この話がまとまった時、おれが依古贔屓をするようなことがあっては、財部の将来に拙いというのだな。
おれはそんんことはせん。世間の噂なんぞを気にかけてはいかんぞ。噂を気にするようでは何も出来ん。よいか。
しかしお前の心配しとることはおれにもよく分かる。とにかく今日は帰れ。この問題は財部自身の気持ちをよく聞いた上、しかるべく取り計らおう」。
滔々と述べられたその道理ある答えに、広瀬はうなずいた。山本の人柄と言葉のうちに、どこか通ずるもののあることを直覚した。彼も不思議に明るい気持ちになって、山本邸を引き揚げた。

縁談は結局纏まった。陸軍の英才として知られる同郷、都の城の上原勇作中佐夫妻が、媒酌人になった。
「宮崎県士族」 細部彪と山本いね子との結婚式は、1897年5月15日めでたくとり行われた。しかし、級友を思う広瀬の暖かい心づかいは、充分に関係者に伝わったのである。しかもこの結婚問題で、誰一人傷つくものの出なかったのは、なんという不思議か。みを挺して友の将来を案じたあの半時間の訪問によって、思いがけず広瀬は、慧眼な山本に見出される機縁をつかんだのである。

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