広瀬の山本邸訪問は、1897年正月のことであった。彼はその時大尉任官後二年目で、測量艦 「盤城
(バンジョウ) 」 の航海長である。この旧式小砲艦は、その前年の12月から予備艦に繰り入れられて、横須賀で修理にとりかかっていた。広瀬が出京して級友のために尽力することが出来た所以である。
間もなく3月9日附で広瀬大尉は海軍軍令部出仕を仰せ付けられた。この辞令は新しい職務につけるために色々な心づもりと用意をさせる前提である。もっと端的に言えば、彼の外国留学の準備の為であった。
幕末から明治いっぱいにかけて、日本海軍はえり抜きの人材をあらゆる方面にわたって海外の先進諸国に学ばせ、それによって独特の組織と体制と実力とを作りあげた。
1894年夏から95年春にかけて行われたシナとの戦いは、この留学制度を一時中絶の状態においたが、1897年初めに、再びそれを復活させることに決まって、さしあたり五カ国に若手のうち有望な海軍将校を派遣する段取となった。
第一は、あらゆる意味で世界一の 「海軍」 国──イギリスである。
第二は、百年の間海上でイギリスと競い合い、事実第二位にある 「海軍」 国──フランスである。
第三は、この二十年来めきめきと頭をもたげて侮りがたい新興海軍国ドイツである。
第四は、日本海軍が長いこと世話にもなったし、色々な意味で新進だが独特の海軍兵学の樹立者も出てきて、人々がみな注意しているアメリカである。
そうして第五は、「三国干渉」 の発頭人として、1895年春五千万日本国民の憎しみをかい、日本国民の復讐心を燃え立たせ、いわば仮想敵とみなされているロシアである。
そこで、留学させることに内定した名前を見ると、イギリスに財部大尉、フランスに村上格一大尉、ドイツに林三子雄 (ミネオ)
大尉、アメリカに秋山真之 (サネユキ) 大尉──どれもこれも選抜きの俊秀ばかりである。
1889年卒業の財部のことは前に書いた。佐賀の村上は、1884年卒業者中の第二位、目から鼻へ抜けるような才人、げんに海軍大臣秘書官の要職に就いている。
河内の林は、1885年卒業の逸物で、温厚沈着な兵学校教官。輿望を負うた好士官である。
アメリカに内定した伊予松山の秋山は、1890年組の首席。前後に希な俊才である。
こららの派遣内定者達に対して、山本軍務局長に異議のあろうはずはない。ところが最後にロシア留学内定者として出てきた名前を見ると、海軍大尉広瀬武夫としてある。
あの広瀬か、よかろうと山本少将は思わずにやりとしたが、裁決の印をおす前に、念のために考課表をずーっと一瞥した。卒業席次 64/80
とあるのには驚いた。64は間違いだろう。6か4の誤記ではなかろうか。なっぼなんでも四十六番のはずがない。副官に調べさせると。間違い有りません、六十四番でありますという。これには流石の山本も躊躇した。思わず判断に迷ったのである。
日本海軍のロシア研究は、そう長い歴史を持っていない。明治初年の千島樺太交換問題前後から、少数の具眼者が北門の危うさを感じてロシアの東侵の恐ろしさに目をそばだててはいたが、宿題は山積していて、せいぜい北海から千島を巡行する調査程度で、さて具体的にこれという対策も研究もあったわけではない。
部内で初めてロシア専門家とみられたのは、薩摩出身の野元綱明 (ノモトツナアキ) からだろう。
野元大尉は、1889年、三十一才の年、ウラジヴォストッークに出張して、それから満二年ロシア語を修め、その附近をあまねく視察して、他日の用に備えた。
1893年6月には、ロシア公使館づき海軍武官を命ぜられ、ペテルブルグに二年暮らして、95年12月に帰ってきた。これが最初のロシア通である。
尾張出身の八代六郎がすぐその後に続いた。八代は、1890年7月、三十才の時、其の筋の命を受けて、ウラジヴォストークに出張した。それから93年4月まで満三年近く、彼は東洋の女王港で本格的にロシア語を学び、附近の海湾、丘陵をあまねく視察して、兵要地誌を窮めた。その八代大尉は黄海でも台湾でも勇戦したが、94年来の戦争が終ると、1895年12月づけで野元大尉と入れ代りにロシア公使館付武官を命ぜられ、ペテルブルグに在留した。
八代がロシアに赴いた時には、この北洋の強大国が、もうはっきり日本海軍の仮想敵にされていた。げんに1896年、ウラジヴォストークに派遣された伊木壮次郎
(イギソウジロウ) は鹿児島出身の海軍大尉で、二級下の広瀬もよく知っていた。果敢で機略のある男である。日本郵船会社のロシア語研究生東健次と名乗って、軍事探偵として働いていた。ことが洩れて、公け沙汰になろうとした時、伊木は自ら和解命を絶って、祖国に累の及ぶのを防いだ。1897年1月20日のことである。
こういう切迫した空気の渦巻く対ロシア関係の中にあって、とくに広瀬が留学生の候補に上ったについては訳がある。英語やフランス語と違ってロシア語は難しい。これを学ぶものは部内にもあんまり数は多くない。ところが広瀬はとにかくその言葉を修めていたのである。
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