1891年5月というのは、文字通りに日本の上下を震い慄かせた大津事件が起きた時である。
事件の内容は誰でも知っているだろう。シベリヤ鉄道を東と西から起工することになって、ロシヤの東方の門ウレジヴォストックでその第一槌を振り下ろす為に東洋に来たロシヤの皇太子
(後のニコライ二世) がギリシャ皇子を伴って、日本に上陸し、琵琶湖のほとり大津の町を遊覧した。
その道すがら、津田三蔵という巡査がやにわに抜刀して皇太子に斬りかかり、頭部に数ヶ所の傷を負わせたと言う出来事である。
ロシヤと日本との国際的地位は、月とスッポンか、釣鐘に提灯か──卑近な例えで言うと、それぐらい段が違っていた。これを良い口実にどんな難題を吹っかけられるかも知れない。
この報を受けた明治天皇は色を失って即座にお見舞いに駆けつけた。政府はすぐさま外務大臣を取り替えて、ロシヤ人の間に気受けの良い榎本武揚をその地位に起用して、平身低頭、平謝りに謝った。腹の中はいざ知らず、ロシヤ側は寛大な出方をしたので、事件はとにかく落着した。
津田が治安を守るべき巡査の身を忘れて、外賓に対してこうした暴行に及んだのは、国を憂れうるあまりのことであったと言う節もある。
その一説によると、陸軍大将西郷隆盛は城山で死んだのではない、彼は密かにロシヤに亡命した、今なお生きている。今度やって来たロシヤの皇太子の幕下には西郷がかくまわれて、密かに日本を転覆しようとする恐るべき陰謀をたくらんでいる・・・・・。
そういう流言蜚語に惑わされ、それを盲信した津田は、国を救うためにああいう暴行に出たというのである。
この説の当否は兎も角として、当年二十四才の広瀬少尉がロシヤ関係に深い注意を払い、ロシヤ研究に志したのはどうやらこの時かららしい。
彼は先ずロシヤの言葉から学ぼうとした。しかし、 「比叡」 分隊士として二百日にわたる遠洋航海の間には寸暇もなかった。やっと1893年の夏、
「迅鯨 (ジンゲイ) 」 で水雷術を練習する尉官教程の学生になって、時間の余裕ができた時、初めて機会は訪れた。
兵学校の頃副官と生徒の間柄で同じように柔道に熱心だった時から知遇を得ていた八代大尉がウラジヴォストークから帰って来たのである。広瀬は麹町上六番町の兄の家に住んでいて、そこからは裏向かいにあった講道館で、夏休みの間、朝のうちはどたんばたんと汗を流した後、一時にはカンカンと照りつける暑熱の道を必ず麻布長坂町の八代邸に通うて、四時までロシヤ語の初歩を学ぶ、その熱心と根気には思わず八代も感じ入ったほどである。
学び始めてから一年も経たぬうちに戦争が始まり、この学習も途切れた。1895年秋から、横須賀で第十八号水雷艇長を務めていた頃は、ロシヤの巡洋艦
「ナヒモフ」 が入ってくると、英語でロシヤ将校に話しかけ、少しづづロシヤ語を仕入れてきた。しかし時がない。師が居ない。なんとかしてロシヤ語をものにしたいけれど、一歩一歩拾うことの歯痒さが身にしみる。
1896年9月20日付の手紙のなかで、外国語学校出身でロシヤ語を解する旧友の一海軍主計に宛てて、彼はロシヤ語教師を周旋して欲しい、あなたでも日々半時間乃至一時間教えて頂けまいか、と頼んだ時、「
「ア、ベ、ヴ、グ」 ト始メシヨリ四度ノ夏ヲ過ギ候ヘドモ、未ダニ綴字ニモ困難致候次第ニ付、是非共、時ノ許ス限リ研究ス可クト決心罷在候」
と覚悟の程を語っている。
その頃彼は 「盤城」 に乗って、霧の深い南朝鮮海の測量に従っていたが、近く横須賀に帰れるから、その折には多少の時間が得られる。その時のことを見通して前もってお願いしておく。
「尤モ頑生露語研究云々ナドハ秘密ヲ御被下度、学力モ付カザルニ虚名ヲ伝ヘラルルコトアラバ、非常ニ迷惑ヲ感ズルコト有之候ハバ唯御一心ニ御秘置有之度候」
── 彼は最後にこういう謙虚な言葉を書き添えることを忘れない。
1897年元旦の早暁、── 横須賀に帰っていた 「盤城」 の自室で、 「一年の計は元旦にあり、元旦の計は朝にあり」 という諺を思い起こして、彼は年始めに三大事を心に刻んだ。
「ロシヤ語ノ研究ヲ一層勉励スベキコト」
「海軍学術ノ研究時勢ニ後レザルヲ期スルコト」
「精神ノ涵養真成軍人ノ地歩ヲ確ムルコト」
以上三大条項のうち 「ロシヤ語ノ研究」 は第一位を占めている。彼の志望と努力の方向が見えるようではないか。
伊木大尉の件も有って、海軍部内が密かにロシヤ留学生の候補者を探している時、広瀬大尉が熱心にロシヤ研究を志しているという噂は、何時の間にか伝わって、あの手紙も一つの資料として読まれ、要路は広瀬のことに注目していた。加えてしのこのものしい人柄がものを言ってか、彼は気づかぬうちにいつか関係者の間で留学生の候補に挙げられていたのである。
二月中旬、山本の手元に書類が来るまでには、こういういきさつがひそめられていた。詮考の事情はわかった。あとは64番という学業成績をどこなで考慮するかである。
それによると広瀬はずば抜けた秀才でないことは確かである。でも考課表を見ると、軍人の本命たる実地勤務は申し分ない。練習艦 「比叡」
の乗組員としては、抜群の働きをした。水雷術を練習させると、同期の尉官十数名のうち、首席で卒業した。サッパリした性格で勤務に励む。心が明るく、快活である。いつも楽しそうである。艦上でも、陸上でも、職務をとることが、義務を果たすというより、愉快で仕方がないらしい。あとは柔道で水兵を投げ飛ばしたり、投げられたりするのが、将棋を指すのが、漢詩を作るのが、手紙を書くのが、楽しみらしい。
その明るい楽しい気持ちは、おのずと周囲にも伝わった。相手も明るく、楽しくなる。広瀬の居るところには、いつも春風の吹き通う趣があった。いかにも立派な人物であると、上官は極力推薦している。
山本は思い切って決裁の印を捺した。目の前の浮んだあの広瀬の澄んだ眼と、今も耳もとに聞えるような快活な大きな声とを、懐かしく思い起こしながら・・・・。
村上、林、財部、秋山、各大尉の留学辞令と並んで、海軍大尉広瀬武夫が、ロシヤ留学を仰せ付けられる旨を官報は報じている。1897年6月26日附けのことであった。
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