『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第八章・駐在員の日常生活 ==

四月二十八日附の手紙を見ると、
「耶蘇教ノ大祭日 (昇天祭) 明後日ニ逼リ申候。例ニヨリテ知己ニソレソレノ贈物致サナクテハ不叶、面倒ノ至リ」
と彼はこぼしている。
ロシヤ暦によると、 「昇天祭」 とは、復活祭後四十日目のお祭りであるが、このころから初夏のセゾン (交際期) が始まる。もっともこの年は大変不順で、四月の末にも雹は降り、ネヴァ河には氷が流れていた。五月の下旬になっても雪が降ってきた。寒暖計も列氏四度附近まで下がっていた。でもやはり、日脚は大いに延びて、街頭の灯は八時にならなければ点火されない。
帝室劇場は開かれた。色々の見世物が町を飾る。花が開き鳥が歌う北国特有のすばらしい春の季節が来かかっていた。
夜空も明るくさえわたる。在留も既に二年誓近くになって、だんだん勝手がわかってきたし、ロシヤ人の友人も増えてきた。学者が多かった。

八代が紹介してくれたロシヤの偉い学者に、フォン・ペテルセン博士がいる。1898年夏のころから、だんだん親しくなった。99年11月の下旬に、博士が勤めているペテルブルグ大学で博士の在職25年の祝賀会が催された。
広瀬も招かれて臨席した。席上、祝詞、祝文、祝電の披露があった。祝電はほとんど世界各国から寄せられて、120通を越え、とうとうその場では読み切れないほどだった。博士はその都度、いくども起立して答辞を述べたが、最後に立ったとき、広瀬をかえりみて一同に紹介した。その紹介の言葉は先ず初めに、日本が最近著しい進歩を遂げたことに驚くと賛美し、なかにも医学界は長足の進歩を遂げて、北里博士の発見などは、世界医学界に大変な貢献をしたと賞讃した。そうして最後にかかる進歩を遂げた日本医学界諸君の祝しましょう。かつ今日ご臨席くだすった日本人として唯一の代表者である日本海軍大尉ヒロセ君の健康を祈って、大いに盃をあげようではありませんか、と自ら音頭をとって乾杯を促した。一座ことごとく、直立したヒロセ大尉に注目し、学士の言葉に和して 「ウラー!」 の声がこだました。広瀬は時ならぬ面目をほどこした。
彼はすぐ北里に手紙を書いて、ペテルブルグ医学界のことを語り、当地の学者は御高名をよく存じております。日本人として肩身が広い。真に御同慶にたえません、と祝詞を述べた。

賀筵の翌日、ペテルセン博士邸を訪うて、昨日の身に余る好意を心から感謝した。博士は各国からの賀状をいちいち見せて、ほんとに得意だった。そこで思うには、25年勤続しても、そのころの日本は賀筵なぢを開かなかった。しかしペテルブルグでは非常に名誉なこととしてお祝いする。もしも日本から博士に祝意を表したものを送れば、ペテルセン家の満足がわかるように思う。
博士の家庭には、令妹と、令息二人、令嬢一人がいる。みんな広瀬には好意を持って、親切だった。
ことに長男オスカル・オスカルヴィチは、広瀬を兄のように慕って、尊敬さえしていた。父の重武が日本の色紙や綺麗な短冊に自作の短歌をしたため、博士が賀筵を聞いたとして送ってくれたら、ペテルセン家は、日本の遠い国元へまで言いやった心遣いを知って、それにまたロシヤ人にとって非常に珍しいものでもあるから、さだめし喜ぶだろう。ご迷惑だが、そうして頂けないかと父に頼んだ。
父は日本の桜の花を散らした見事な色紙を送って来た。
「九重の みはしの花も かざせよと 今日うらやすに 匂ふ春風」
と、祝いの宴にふさわしい大和歌が、「清舎 (スガノヤ) という父の雅号どうりの清らかな筆蹟でさらさらとしたためられてあった。
スペランスカヤ嬢がいつであったか、兄嫁に自分の近況を報じて、立派な方だと言ってくれた手紙に対して、99年6月兄嫁が、返事はやっぱり英語ですべきかと聞いてきた時など、それは水茎 (ミズクサ) のあとうるわしい和文の方が良かろうと言ってやった。これも色々の家の例などで、日本のふうなものをロシヤ人が珍重する風習を十分に見聞きしていたからである。

ロシヤの知人に時々教育界のことを聞く。ロシヤでは、一番大切な小学校を大切にしない。中学には有能な教師が少ない。大学は政府の方針がいつもぐらぐらして、進歩的な政策を取るかと思うと、急に反動的に弾圧するから、一貫した制度が根付かない。そのため大学生は現実を無視して抽象的な政治論に熱中しやすい。スポーツを好まないし、風俗は乱れている。案外貧乏な学生が多いため、その日ぐらしの生活で、自殺者も時々出るという話であった。
教会は大勢力を持っているから、僧侶の教育は小学校から大学まで一貫したものを持っている。
キーエフ (1631創立) モスクワ (1685) ペテルブルグ (1797) カザン (1842) と、ロシヤの大学は、はじめ神学部を中心に創られた。西ヨーロッパと同じである。しかし、大学出身者のうち、ごく少数が僧籍に入って、大部分は医師や法律家や官吏や教師やジャーナリストになるという話も聞いた。

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