林公使以下の公使館員たちも、みんな上泉を歓待した。ことに豪快な田中大尉は大いに意気が投合したと見え、たびたび夜遊びにさそい出した。広瀬も二度ほど知り合いのロシヤ人の家に連れて行ったり、日本の友達と一緒にマロヤロスラーベツやパルキーヌの店で純粋のロシヤ料理をご馳走したりした。
上泉は、背は高いが、少し猫背のなかなかの好男子である。三十四だという。ロシヤの食べ物は、いったいに塩辛いぞ、俺のような酒飲みの口にあうものが多いとご機嫌で、次から次へ話をした。
「俺は明治十五年の第十二期生だが、とんでもなくよくできる奴ばかりいたクラスだ。クラスヘッドは君の知っている佐賀の江頭安太郎でね。ほとんどどの学科でも太刀打ち出来ぬほど優れていて。そこで、クラスの奴はみんなで一科目ずつ受け持って、江頭に負けるなと勉強した。俺は数学の受け持ちだ。数学では最後まで首席のにも負けなかったぞ。」
と愉快そうに笑い飛ばした。
広瀬は練習艦 「比叡」 で同僚だった江頭少佐の風貌をありありと思い出した。
めったにものを言わないが、どんなことにも要領を得ていた。二百日以上もこの分隊長心得の下で彼は分隊士として勤めたが、そのころの江頭は決して人を叱らない。しかも威厳は自ずとそなわり、この人の前ではうっかり物が言えぬ。何を言うのにも慎むというふうだった今度も
「高砂」 の回航員で、ニューカッスルに来ていたことは前から兄に聞いていた。
「伊藤侯爵とはどうしいぇお知りあいですか」 と聞いてみる。
「俺が 「浪速」 に乗り組んでいたころだ。まだ小僧っ子の少尉候補生だったから、二十二か三かな。伊藤さんはそのころ伯爵の総理大臣さ。大山陸軍大臣を連れて
「浪速」 で九州の方面を見て歩いた。
途中退屈だから、艦長室で花札をひいていたよ。ちょうど俺が甲板士官で、艦内の軍規風紀を取り締まっていた。後甲板の天窓からその様子が見えはしたけど、なにしろ艦長室の中のことだから手も足も出ぬ。腹がたったね。
ちょうど遠州灘にさしかかった時、伊藤さん葉巻をくわえて上甲板に出てきたと思うと、ゆうゆうと後艦橋に登ってくる。
おれは大きな声で 「艦橋で煙草をのんではいけません!」 と一喝してやった。
やっこさん、俺の方をじろりと見たが、ポイと葉巻を海に放り込んで、艦橋を降りていったよ・・・・・」
話を聞いただけでも、どうなるのかと案じられる。
「ところが、鹿児島に入ったと晩、青柳という料亭で、知事が総理大臣はじめ艦長、少尉候補生までみんな招いて、歓迎大宴会を開いてくれた。伊藤さんは主賓だから床柱を背中にしょって威張っている。俺は床前の列から直覚の曲がって一番末席に座っていた。ちょうど対角線の位置で一同を睨みつけていたよ。
知事の歓迎の挨拶に始まって、いよいよ宴会ということになった。総理大臣が居るものだから、万座しーんとして静かだ。
俺はもう昼間からメートルをあげていたから、居並ぶ一同を尻目にかけて、のこのこ対角線を上座の方へすすみはじめた。びっくりしたな、みんな。ことに艦長は驚いたね。真っ直ぐに伯爵の前に出て行って、
「お盃を頂戴致します」 とやったんだ。艦橋の葉巻事件で俺の名前はちゃんとご存知の総理はね、 「上泉か、よう来た」 とすぐ盃を下さって、大変お喜びになった。俺は大いに面目をほどこしたね。」
こちも思わず愉快になった。上泉は話を続ける。
「そこまでは上々さ。ところがそれで大得意になって、次から次へと盃を重ねているうちに、いつか何にもわからなくなってしまった。翌朝目を覚ましたら宿屋に寝ているんだ。そばに先輩がいてね、
「昨夜は大変だったぞ。貴様暴れ出して一人で騒いでいたから、とうとうここへ担ぎ込んだんだ」 といわれて、ほんとに恐縮したな。俺が
「飲み泉」 といわれるのも無理はない。」
そう言ってまた豪快な笑いを笑った。たしかに酒量はほとんど底なしだった。日本酒の方がいいが、洋酒でもかまわない。
田中たちと飲んでいたとき、こんな打ち明け話もした。
「二十七の時だったか、まだ少尉だったな。その夏、シナの北洋艦隊が長崎に入って来た。前にやって来たときあそこでシナの水兵が暴れまくったろう。町では反感を持っていて、歓迎どころか、壮士が集まって、シナ兵を見つけしだい袋叩きにしようという計画があったんだ。
俺は 「葛城 (カツラギ) に乗っていてね、 「盤城」 と 「満珠」 といっしょにシナ艦隊を歓迎しろという命令を受けてきていたのに、陸上でそんなことをやられちゃたまらん。国交上ゆゆしき問題だと思ってね、すぐ艦長に申し上げて、対策を進言したんだ。
それはね、こっちから進んで士官以上を大歓迎するということだ。艦長は賛成してくれたが、なにしろ艦長の一ヶ月の接待費がわずかに金五円也だ。三ヶ月分三隻分を集めても、ただの四十五円さ。」
昔の日本海軍の貧しさが目に浮ぶ。上泉はどうしたのか。話は続いた。
「そこで鎮守府へ行って、参謀長に申し上げたところが、長官にも御相談になって、金五十円也を援助してくれた。その金を元にして、県と市に協力させて会場は長崎遊廓、娼婦芸妓総員接待に奉仕のこと、というところまでこぎつけた。屋外に大食卓を設け、提灯を吊るした。酒は勿論、肴としてシナ人が大好物の料理だな、牛に頭を骨のままで煮る料理があるんだ。これはたいしたご馳走なんだが、なにしろその頃の日本人は、牛の頭なんぞ食わないから、ごく安く手にはいったよ。
そいつをととのえて、日本とシナの国旗を交叉して、長崎全体で艦隊に協力してくれた。あらゆる用意を整えて歓待したから、長官の丁汝昌はじめ士官全部が大喜びで出席した。あんまり歓迎がお気に召したと見えて司令長官以下全部その晩おとまりだ。・・・・・その返礼として日本艦隊の士官以上を艦上に招待してくれた。上陸する兵員には厳重に命令したから、前の年のような騒動は起こらなかった。万事円満にいったよ。」
と、にやりと笑って、最後に締めくくりをつけた。
「君子人の 山屋他人などは、俺のことを、いざというときには、普通の人にやれない大事なことを立派にやってのける。機略縦横な奴だ。あいつは海軍に置くよりも政治家として活動させる方が歴史的な大事を成遂げるだろうと褒めておったぞ。
政治家どころか。俺の祖先を誰だと思う。剣道神陰流の開祖上州箕輪の城主上泉伊勢守秀綱だ。その十二代目の後裔が、この俺様なんだ。」
そう言って高笑いしながら盃をあげた。政治家肌の田中大尉はひどく嬉しがっていた。実に不覇磊落で、奇想天外から落ちるような豪快な男である。
文字通りに談論風発、時の移るのを知らずという面白さである。年も三つぐらいしかちがわないし、さっぱりした正義漢だし、近づきやすく親しみやすい。
広瀬は 「今年ニ入リ第一ノ珍客、大ニ愉快ニ消光罷在候」 と父に手紙を書いたほどである。
確かに愉快に違いなかったろう。もともと闊達な軍人だから、敬愛する上泉をもてなしたいという心づかいで、ただいっぱいだったらしい。
四月十七日は、朝から大吹雪だった。それまでいくらか春めいていたこの都は、急に一面銀世界になって、ほとんど人影も見えない。その夜八時、上泉は野元以下の陸海軍武官たちに賑やかに見送れれながら、モスクワに向かって出発した。トルコにわたり、南ヨーロッパにぬけて英国に帰るというのである。
五月に入ると、イギリスのアームストロング社会社で造っていた装甲巡洋艦 「出雲」 の回航員釜屋忠道
(カマヤタダミチ) 少佐が幡野 (ハタノ) 道之助大機関士と連れだってペテルブルグに来た。
釜屋は三十七才。上泉とは同郷の先輩で、練習艦 「比叡」 の分隊長として、また艦隊参謀として、広瀬はいつも世話になった上役だから、八日間丸潰しにして丁寧に案内した。
あいにく野元中佐がオランダのハーグに出張して留守だったから、広瀬が引き受ける以外に手はなかったのである。
来る人も多いが帰る人もある。中にもベルリンの山形仲芸には、たびたびロシヤに来いと招いていたのに、色々な事情でその願いは実現せず、医学士は四月十八日日本に向かって立っていった。人なつこい広瀬は土産物を託けたが、少し寂しくなったような気がした。
つづいて四月二十三日には、公使館の飯島亀太郎書記官が、日本に帰るのを見送った。南洋の領事に転出する予定だと言っていた。夫人もよく世話するし、親密に交わっていたから、別れの寂しさは身にしみた。
こんなふうに海軍部内にも、彼は多くの友達を持っていて、手厚くもてなす。費用もかさむ。相手は何も広瀬に散在させるつもりはないが、こちらは受けるより与えたい性質だから、出費は少ない金額ではなかったのである。
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