『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第八章・駐在員の日常生活 ==
広瀬はロシヤに来てから、学費として年額2500円を貰うことになった。月額203円なにがしである。これを三月づつまとめて受け取る。
彼はこれから学費だけでまかなうつもりだった。ところが物価の高いのには驚いた。持って来た荷物を運ぶだけで92ルーブル98コペークかかった。あとの大口は、教師への謝礼、月35ルーブル。部屋代25ルーブル。
日常品を買うと、靴と上靴8ルーブル、帽子9ルーブル、机、手拭、シーツ40ルーブル20、革袋5ルーブル55、時計30ルーブル、時計直し1.5ルーブル、洗濯代0.59ルーブルなど。
〜〜〜 中 略 〜〜〜
最初の一月だから物入りは多いはずだが、一月たってみてほんとに手元の苦しいのがわかった。毛皮外套どころの騒ぎではない。経済は窮迫していた。ただ八代のおかげで食い扶ちがいたって安かった。この先輩がいなかったら、到底やっていけまいと陰ながら深く感謝したほどである。

1898年1月6日付で二級奉 (八百六十四円) に昇った。四月一日付で学資も三千三百円に昇給された。父が直ぐ喜ぶの言葉を述べてきたが、広瀬もいくらかほっとした。
外套はまだ困っている。 「シネーリ」 という上等なものには、手が届かないが、六月には外套だけで四着新調していた。
十月三日には一級奉 (九百六十円) に昇給した。大尉で一級奉になったなどという人の噂を、四五年前に聞いたときには、その人がもう予備役に編入される入り口ぐらいに想像していた。しれが今は我が身の上になった。日本海軍も名実共に大規模になった為、 「上すき下押し」 の形で、俺も大尉の古株になったのかと考えると、我ながら可笑しかった。

年末の彼は、年三千三百円の学費をいっぱいいっぱいに使っていた。年来欲しかったシネーリも作った。予定より少し食い込んだ気配さえある。98年9月、ロシヤの家族の中に入ってからは、八代のアパートにいたころのように安くはあげられない。部屋代と食費だけでも千二百円はかかるのだ。十一月フランス語の研究を始めた時は、本俸からその費用を出すことにしていた。年三千三百円といえば、相当な学費であるが、とても余裕などは出てこなかった。

姉は名古屋の人だから経済観念は発達している。家庭生活の体験上俸給を極力貯めよとすすめて来たが、折角の親切な忠告はあり難く受けても、実行はおぼつかなかった。せいぜい貯金して公使館付武官というような役目についたとき、華やかに使いたいのは山々であが、今のような有様ではとてもそんなゆとりは出てこない。それにまた、日本にいれば例によってピーピーだったものが外国に行ったから貯蓄が出来たといわれては気持ちが悪い。 「金銭ニハ旧来モ縁ナキモノト諦メ候事、却テ心地ヨク候也」 と彼は兄嫁に向かってイバッている。

四月二十七日届いた電報によって、彼はロシヤ留学生を免ぜられ、ロシヤ国駐在仰付られるという命令を受け取った。
「経済上ノ都合トハ存ジ候ヘ共支給向ハ増加ノ事ト存ヘバ有難事ニ有之候。乍併責任ハ表面上ニ加ハリ申候」
と彼は父に報じた。
今までは純然たる学生だったが、これで学術研究軍事視察なとのための外国駐在を命じられた仕官の一人になったのである。身分は海軍次官に隷属する。
毎年一月と七月の初めに、過去及び未来の六ヶ月におけるその任務をどう果たしたかという経過状況と予定を報告する義務がある。広瀬の出立前に軍務局長からうけた訓示は、 「ロシヤ留学中海軍軍備ニ関スル事項ヲ調査シソニ研究ニ従事スベシ」 というのであったが、駐在員としては、そのロシヤ海軍の軍備に関する 「事項ノ調査並ニ其研究ヲ継続」 することになった。
手当ても一等、即ち年四千円にのぼった。日本内地では月額四十円もあれば、一人前の暮らしが出来た時代である。
ロシヤは物価が高いと言っても、外務省留学生は月百円、文部省留学生は月百五十円の手当でやるように決められていた。
それでどうやら体面を汚さずに暮らすことが出来た。駐在武官としての広瀬はもう学生ではないから、物入りの点ではもっと上だったろう。でも彼の貰っていた手当ては年四千円になったのだから、ペテルブルグでも中流の暮らしは充分たてられた。ことによると中の上というくらいの生活ぶりは可能だった筈である。どちらから見ても、そんなに窮屈な筈はない。むしろやや余裕の有る生活が送れる訳なのである。
広瀬が二言目に国恩の厚きに感涙したのも当然である。ところが、彼はやや後の手紙の中で、
「手当モ可ナリ貰ヒ居候ヘ共、兎角喰ヒ込勝ニテ時間ト嚢中ノ欠乏ニハ、毎度ナガラ閉口罷在候」
といっている。これには思わず首を傾げたくなる。
もともと彼は酒も呑まない。煙草もすわない。軍人には珍しく女遊びもしない。老いた父もいて、病める弟もいて、故郷に送金していたとしても、それは日本で積み立てている本俸から送られるのである。どうみても、ロシヤでそんなに金の要りよう筈がないのである。それだのに毎回泣き言を言うのはおかしい。そこで考えられることは、意外に友達が多く、交際費がかさんだのではないかということである。その友達の中には、日本人もいた。ロシヤ人もいた。

海軍部内の仲間を篤くもてなしたことは、川島令次郎少佐の話でも明らかである。
99年4月はじめ、イギリスで艤装中の戦艦 「敷島」 の回航員上泉徳弥少佐が遊びに来た。兄の勝比呂とは同級の畏友山下源太郎少佐と同じように、米沢の出身で、広瀬にも親しい先輩だった。天下に名だたる伊東博文侯爵のも知られ、95年の戦争を見物にわざわざ威海衛まで 「出張」 して危うく軍法会議にかけられそうになったという逸話を残し、海軍内部では誰一人知らぬ者無き 「名物男」 の酒豪であった。
この上泉が来た時などは、広瀬は自分の宿に泊めて、十日間ぶっ続けに朝晩一緒に見物のお供をして歩いた。
たとえば、四月十日にはピョートル大帝がひらいたフランス様式の 「夏公園」 に案内し、夜はフォンタンカ河上のチニゼルリ・サーカスに連れて行った。ロンドンの 「オリンピヤ」 を真似たもので、広さも四分の一ぐらいだろう。技はたくみだが、とてもオリンピヤにはかなわぬと、上泉は批評していた。
十三日には造船所、十四日には造兵工廠の見学についていった。ネヴァ河の上流イジョラの水雷艇工場も見た。案内のロシヤ士官は、このうちニ隻は、あなた方の国に対してウラジヴォストークを守るため、出来上がり次第送る筈になっておりますと笑いながら説明した。これには同行の野元をあわせて三人の日本海軍士官たちも、魚心とでもいうのだろうか、これまた大きな声を上げてころころよく笑った。
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