『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第八章・駐在員の日常生活 ==

1897年6月、留学の辞令を貰った翌日、広瀬は海外に出張する兄と人をまぜをせずに相談した結果、兄弟の連名で、次のような一札を、叔父宛てに書き残した。

一、 此度兄弟海外ニ出張ニ付兄弟熟議ノ上一家ノ後図ニツキ陳述致シオキ候
一、 我一家萬一ノ事アラバ叔父上ハ我々兄弟ニ代リ整理被下度事
一、 月ニ弐拾円宛従前ノ通リ家大人ニ送金ス (兄弟ヨリ)
一、 家祖母并ニ家大人ニ萬一ノ事アル時ハ其雑費トシテ金五拾円留守宅ヨリ送金可到事
一、 其他家内ニ萬一ノ事アル時ハ金弐拾五円留守宅ヨリ送金可到事
一、 広瀬家ヨリ他ニ縁付キタルモノ萬一ノ事アラバ金五円贈与可到事
一、 東京一家ノ事ハ同号生ニ以来致シオキ取計フベキニ付御配慮願度候
 
勝比呂 武夫
  叔父上様

これでロシヤ滞在中の根本の方策が立った。いわばこれが後図第一号である。
広瀬はそれから留守中のわが家計を、次のように処理して貰うことを兄嫁に依頼してきた。

一、 出張中ハ年俸全額ヲ残シ置ク事
一、 国元其他一家親戚ニ関スル義務ハ兄上ト一様ニ御支出被下度
一、 同号会其他ニ関スル費用義務又先方ヨリ買物等ノ依頼申節ハ右金額中ニテ御支弁被下度
一、
残額ハ御手許或ハ銀行ニ御預置被下ベク候也    再拝
一、
明治三十年六月二十七日              武夫
一、 姉上様


いわばこれが後図第二号である。第二号中で年俸全額というが、彼はこの時海軍大尉の三級奉 (780円) を受けていた。
俸給は三ヶ月続けて東京渡し、三ヶ月続けてペテルブルグ渡しということになっていた。例えば、二、三、四月分ロシヤ渡し、五、六、七月分東京渡し、八、九、十月分ロシヤ渡し、十一、十二、一月分東京渡しという形である。
年末に学費半月分わたしすごしというはなはだ面倒な事件が起きた。講道館の矢作 (ヤハギ) 栄蔵は、会計経理に詳しく法学士だから、代理に頼んで処理して貰った。

1898年1月20日、祖母の死の通知を受けた時、かねての一札がすぐ効果を奏して、葬式代は東京から送られた。いろいろ費用が掛かっただろうから、遠慮なく自分の方へ申しこしていただきた。手当ては必ずどうにかする。経済上のことで父の心を決して痛めたくないと、彼は故郷へ申し送った。その通りに処理された。
1898年8月、兄が日本へ帰ったから、兄と協定した後図第一号は自然に消滅した。

でも第二号の用件は増える一方だった。兄嫁の労は大変だった。やれ同号会 (クラスカイ) だ、攻玉社 (年額三円) だと、会費を代わりに送ってもらう。しまいには毎年のことだから、一度に三年分なり四年分なりまとめて送ってもらうことに下。それからやれ大礼服の襟を注文するとか、やれ外套につける絹のラッコがどこでどのぐらいで買えるか、それを問い合わせてくれとか、やれ日本の食料を山県に頼んでくれとか、やれ土産物を揃えてくれとか、厄介なこと、面倒なことは、みんなロシヤから兄嫁に頼んだ。
兄嫁はそれらの注文をさして面倒とも思わず、要領よくさばいてくれた。 「時事新報」 を送ってくれと頼むと、直ぐそう取り計らってくれた。指定の金額が残る時など、その差額までいちいち精細に知らせてくれる。几帳面な性格と適切な実行力を持っているのには、いつも敬服した。広瀬にとっては、ほんとにありがたい姉であった。
98年3月初めに貰った手紙には、自分のような不束者を力にしているとまで言ってくれた。国元や親類のことを考えると実感だろうが、そう言われると、こちらはやっぱり嬉しかった。兄と同じように骨肉の姉のよに思われる。
ただ自分のような 「疎放乱暴ノ性質、御前様ノ力ドコロカ御厄介ニ相成候モノ、御礼状コソ至テ痛入ル事ニ有之候」 (四月十八日) と、彼は一流の率直さで感謝の気持ちを表した。

何やかやと苦労を重ねさせたお礼として、彼は心を込めてロシヤ製の 「襟かざり」 を姉に送った。誰の力も借りず、姉に似合うようにと自分で選んで、自分で見立てた。意匠も細工も気に入ったという礼状が来た時は、やっぱり嬉しかった。俺も美術眼があるのかと密かに時になって、これで少しは感謝の心が届いたかといくらか満足だった。
姉へばかりではなかった。ロシヤから家族や親類にも折につけて珍しい品物を送った。例えば98年4月27日、川上俊彦が賜暇帰朝を許されたので、ついでに東京の兄嫁まで木づくりのロシヤ製煙草入れを托した。父と叔父とのお笑い草に供したかったのである。かねて約束していたロシヤ更紗は日本の着物にも仕立てられるので、故郷の人たちの手許に早く届けられた。

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