『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第七章・春 雁 似 我 我 似 雁 ==

今度の宿の主人は大蔵省の役人だというのに、人に対する思いやりがまるでない。いくら主人だといって、召使をあんなに酷く使うという法はない。
彼は召使達の為に多いに弁じて、主人とやりあう。いくら話してもぬかに釘なので、ごうを煮やし、もう一度プーシキンスカヤ街の八代の部屋に転げ込んだ。三月二日のことであった。
「君は柔道の技では達人だが、まだ奥義を窮めていない。柔道はもっと微妙に応用せねば駄目だぞ。」 八代は広瀬に向かって、柔らかに諭した。

三月八日、とうとう野元中佐が着任した。八代の部屋には日本人三人が一緒に暮らして、一時は混雑した。
野元は部内に鳴り響いたロシヤ通で、四十一才になるカゴシマ人。額広く、鼻太く、見るからに船乗りらしい風采だが、なかなか短気で、豪傑肌の武人である。
ロシヤ公使館附武官は二度の勤めだから、旧知が多く、間もなく前に世話になった家の部屋に移った。八代の部屋へは杉村虎一書記官が入るというから、広瀬の方でも部屋を探さねばならぬ
。ネフスキー通りの橋のそばに離宮がある。そこから見透かせるカラワンナヤ街にとうとう見つけた。公園にも近いし、一流の住宅街だ。
六階だから百段以上も毎日上がり下りする。部屋と食事で一ヶ月百円を払う。もとトルコの海軍武官がいた部屋で、客扱いに馴れている家だから、まずまずここに落ち着かねばなるまい。三月十五日から新しい部屋の生活が始まった。
何か不安なことでもあるのか、暫く様子を見ていたらしいが、八代は三月二十日、ペテルブルグを出立した。
「春雁似我我似雁 洛陽城裡背花還」 と平素愛誦する直江山城の漢詩を駅頭で口ずさみながら、立って行ったのである。オデッサ、セヴァストーポリと南ロシヤを巡察して、シベリヤ経由、七月十日ごろ着京の予定だと語った。

あんなに大切にしてくれた先輩は初めてだと思うにつけ、広瀬は寂しかった。いつでも自分を守ってくれた楯を失ってしまった感じであった。会いに行こうにももう会えぬとわかると、いよいよこの先輩が慕わしかった。あらためてその人の有り難味が骨身にしみた。
思い返すと、あの人の眼は一種特別な光を放っていた。燕趙悲歌の士の眼の色だった。あの眼はいつも相手をじっと見据えた。どこか恐かった。それにものの言い方もはっきりしているし、人物評だって飾りはないし、単刀直入的にずばりと言うから、時々人にはばかられた。
一度議論になると、決して主張は曲げぬ。ほんとに熱心で圧倒的だった。論旨よりもその迫力で、相手を説き伏せる。もともと勝気で精悍な気質なのだ。
時には確かに恐い人だった。恐いけれども、さばけていた。素行問題などで他人のことを批評がましく言う奴がいると、あの人は、若い者のことだよ、温かに見ていてやれとか、おれは男女の関係のことはとやかく言わぬことにしているとか言って、さらりとしているのには頭が下がった。
笑うと無邪気な顔になった。たくまないで、自然に愛嬌があふれてくる。ああいうのが童顔というのだろう。
世の中には裏から他人をのぞく奴もいて、八代のことを芝居気があるとか、ポーズの人だとか言う批評を聞いたこともある。でも違う。俺はあの人のそばに二年暮らして、あの人の人柄をはっきり感じた。あの人は自分の信ずるところを真っ直ぐに生きてゆく純情の人だ。 直情径行漢が。本心から日本の為に身を捧げた本物の国士だ。
あの人はいつだったか 「俺は海軍兵学校に入れなかったならば、侠客になるつもりだった」 と笑っていたが、たしかに人柄は侠客肌だ。それも常識豊かな現代紳士が侠客の徒になった感じだ。
海軍武官として来ても、ロシヤ側がとても大事にした。あれは、やっぱりあの人の人柄を異国人でもわかったからだろう。
ほんちに俺はいろんな事を学んだ。思えばありがたい人と一緒に俺は暮らしいぇいた。
・・・・・・正しくてしかも懐かしい人柄の魅力 ── 八代六郎のあこがれた理想の光を、広瀬は自分まで浴びたような気になった。未熟な自分の人柄まで、いつの間にか清められ、高められたような思いがした。

NEXT