八代は広瀬をわが弟のように愛している。自分の後任に推したいと心密かに思っていたから、ロシヤ語の実力をしっかりつけろと励ましたほかに、ロシヤの上流社会では絶対に必要なフランス語の勉強も進めた。
この先輩の言葉は何でも文字通りに遒奉するから、広瀬の研究科目にフランス語の一科が十一月以後新しくつけ加えられた。
打ち込んで勉強するから、広瀬のロシヤ語も少しずつ上達した。書く力も少しは増した。それも八代の示唆による。
八代はこう言った。
「自分は読み、聞き、話すことは稽古したけれど、書くことは稽古しなかった。そのおかげで、大変不便を感じている。君は書くことを稽古するために、文章にならなくてもかまわんから、毎日ロシヤ語で日記を書きたまえ」
広瀬は八代の言葉をすぐ守って、その日から書き始めた。1897年末のことであった。初めはただ単語を並べたような侘しいものだったが、後には兎に角、体をなした文章で、日記をつけられるようになった。
いくらかロシヤ語を話せるようになった時、八代は、ロシヤの信頼できる友人たちにつとめて広瀬を紹介した。
学者で、子供の多いペテルセン博士の家に連れて行ったとき、子供たちは一見武骨でなじめなさそうな広瀬にすぐなついて仲良くなった。彼が行くところ、子供はまといついて離れない。
「子供の天使のようだね」
八代が笑うと、
「私は子供が好きなんです。東京でも兄の家では可愛い姪がいるから、いつも抱いて部屋の中をぐるぐる回って遊んでやるんです。」
と答えた。事実彼の部屋には、いつもその馨子 (ケイコ) の可愛い写真が飾ってあった。
“怒れば猛獣も伏し、笑めば児もはいまつわる” とは、彼のための言葉だと密かに感歎して、八代は広瀬の無邪気な人柄を今更のように愛した。
八代はまた広瀬の文才をそれとなく試してみた。近衛騎兵隊大通りの公使館まで一緒に出かける途中、八代は突然、
「万里長城不禦胡」 と吟じた。この詩句を三十歩の間に十七字つくってもろと命じた。
五、六歩で出したかと思うと、広瀬はもう 「盗人を吾が子と知らで垣つくり」 と高々と吟じた。その日一日八代は機嫌がよかった。
1898年11月、人気を務め上げた八代中佐は、日本に呼び戻されることに内定した。公使館付武官としての後継者を選んで知らせよ、という関係当局の要望に基づいて、八代は、かねてから意中にあった広瀬大尉を推薦した。大変破格な抜擢であったが、広瀬には一口も洩らさなかった。上司もまた広瀬を昇格させることに異議がなかった。内輪の取り決めがほぼ決まりかけた時、八代は初めてこの事の次第を広瀬に伝えた。広瀬は愕然として驚いた。
「私には出来ませぬ」
「出来ない理由などないじゃないか。ロシヤ語も今はさしつかいないし、この前からフランス語をやれと勧めておいたのも、もとを正せばこの為なんだ。
僕の事務はほとんど毎日のように見ているわけだから、よく知っているだろう。ロシヤ人の知人にもみんな紹介してある。
君が段々と交際も深まったのを見たとき、僕はつとめてその家には近寄らぬようにした。あれも、実は君が後任になった時やりやすいようにと考えてやったことだ。
それにまた先輩の僕が大丈夫と見込んで推薦し、当局もよかろうということになって、ほぼ内輪の話が決まった今日、出来ませんなどと言うのはおかしいじゃないか。」
「それはたしかに貴方のお言葉通りです。貴方が私を大事にして下さるのはよくわかります。兄貴だってこんなにはしてくれませぬ。
でも私には大任を引き受ける自信がないのであります。自信がなくて仕事をして、万が一にも過失をしでかしたなら、国家に対して切腹してもすみませぬ。先祖菊池の名を汚し、父の名を恥かしめる事になります。
今度だけは勘弁してください。こればっかりは親父の命令でも、私はきけませぬ。」
どんなに八代が諭しても、広瀬はがんとして聞かない。とうとう八代も腹を立てた。広瀬は黙りこくっている。
その翌朝、もう一度呼び出して諭してみた。 「私には出来ませぬ」 という一点ばりである。涙がぽとぽと頬を濡らしている。八代は負けた。
十二月八日本省の命令が来た。
「八代中佐帰朝仰セツケラル。交代員野元中佐到着後出発スヘシ」 という電報である。
無理に公使館付武官に任ぜられなかったのにはホッとしたが、八代と別れることはたまらない。もっとも信じぬいた師とも兄とも言うべき先輩と袂を分かつからだ。
八代はもう三年も勤務したのだから、日本に戻って然るべき大艦の副長の職につくのだろうと予期して、満足な顔つきだ。然しこちらは困る。父や兄に別れる時の気持ちがこれだろうかと思う。とても心細かった。
1899年の元旦がめぐって来た。不順な正月である。晩秋までは暖かで、細い雨がうっとしかった。それが十二月に入ると、急に寒くなった。零下十八度に下がった時さえある。それが年末からまた寒気が緩んで、気温も氷点下に下がらないから、ところどころ雪解けが始まって、橇は通わないし、氷すべりも中止になった。
八代中佐はまだ残務を整理しながら、相変わらず公使館に出ている。忙しいが、どこかゆったりしている。欲深で、物事に役せられるようでは、こんな気持ちにはなれぬ。
“採菊東籬下 悠然見南山” というところか。
子供もころはバカらしいとただバカにしていた。ついこの間まではいやに気取って気障な歌だとばかり思っていた。それはこの頃では 「悠然トシテ南山ヲ見ル」
と毎日幾度もくり返しているよと笑っていった。
二月十五日の寒さはものすごかった。伊東主一 (シュイチ) 中佐がペテルブルグの病院で死んだ。すでに五ヶ月も闘病していたのである。享年四十四才であった。
その遺骸を郊外ワシリエフスカヤのスモレンスク墓地に葬る為、日本駆使館関係の人々はみな見送っていた。
人物も才能も抜群だった。包容力は大きいし、見識はしっかりしていし、しかもそれを実行する勇気があった。岡市之助や根津一
(ハジメ) などと同級だが、これほどロシヤ陸軍の内情に精通している人物はいなかったといわれる。 二十年研究したその成果を充分に発揮せずに異郷の土になったこの武人の心の中を思いやって、人々はみな暗然とした。
一夜秋風落客里 天涯万里泣呑声
寧波河畔無情土 埋却胸中策縦横
とは、このとき広瀬が挽した七絶である。後任には村田惇 (アツシ) 中佐が来た。四十一才になる東京生まれのこの人も、有名なヨーロッパ通で、風采は立派だし、器も大きかった。
二月の末、野元はパリ辺りまで来たらしい。いよいよ八代との別れが近づいた。寒い、寒い。零下二十三度二分にまで下がった。氷すべりなどをして鬱を残じる。
|