『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第七章・春 雁 似 我 我 似 雁 ==

八代六郎は、尾張の国丹羽 (ニハ)(ラクデン) 楽田の人。この時三十八才である。酒が好きだ。飲むと陽気になる。二十代には三升酒をペロリと平らげたと自称している。
若い頃は、短気でむかつ腹をよく立てたが、今は充分に自制力が出来て、社交にもたけ、磊落淡白、何処から見ても粗暴なところがなく、礼儀正しい紳士である。 自ら奉ずることはうすいけれど、人の為にはよく金を使う。時々世話になるロシヤ人をよんで御馳走する。海軍将校もいる。学者もいる。そういう宴席には、いつも広瀬を同伴して、 「さあ、わが介抱人よ来たれ、余は今夜、酔わざるべからず」 と直訳風の口調で広瀬を笑わせながら、引っ張ってゆく。

料理屋は、たいがいフランス人かドイツ人が経営している。ネフスキー大通りの橋に近いボチシャヤ・コニューシェンナヤの 「熊屋 (メドウェーディ) 」 にはよくいった。あんまり格式ばらないが、フランス料理店アルベールも贔屓にしている。これはマロヤロスラーベツやネフスキー大通りとウラジミール大通りとが交叉する街角のパルキーヌに行く。どこでも食堂ではロシヤ風の大オルガンを演奏している。 「チェロヴェーク」 よ呼ばれている大変な数のギャルソンがずらりと並ぶ。丸い顔、黒い眼、短い髪のダッタン人も交じっている。
大切な客で正式の食事を出す時は、ボリシャヤ・モルスカヤ六番地の 「フランス・ホテル」 やネフスキー大通りとミハイロフスカヤ街の角にある 「ヨーロッパ・ホテル」 の食堂に案内する。

ロシヤの給仕派はよく手伝って、肉まで切ってくれる。酒はクルミヤの葡萄酒を飲む。昇天祭のころから氷菓も出る。
主人の八代が客に酒を勧め、歓談する介添えになって、広瀬は座を取り持つ。酒を好まぬからと言って宴会を忌み嫌う風もない。彼は賑やかに談笑して、さかんに上手いものに手を出す。人に気兼ねもしないし、見栄も張らなし、老人にも女性にも明るく話し掛ける。酒は全く飲まないが、客が酔えばかいがいしく介抱もする。八代がすっかり酔っ払うと、会計を引き受け、勘定も給仕の心付けも何もかも手落ちナク処置し、もう動けぬ八代をひっかついで、部屋まで送り届ける。
こんなウマの合う友も居ない。世の中に縁というものがあれば、自分とこの先輩との間にこそ縁があったといわねばならぬ。広瀬は改めてこの先輩との因縁を一つまた一つと辿ってみた。

兵学校で世話になった頃、ロシヤ語の手ほどきを受けた頃、── 色々思い出されたが、94年の夏のことが一番生々しい。
きげんのいい食事時、八代から聞かされたので、広瀬はよく覚えている。

八代の乗った巡洋艦 「高千穂」 は、ハワイ警備から呼び戻された。熱帯の貝殻がいっぱい底について、速力が出ない。石炭がなくなるのを恐れて、天幕で帆をこしらえてかろうじて日本に帰りついた。
うっかりすると戦争はもう始まって、優勢なシナ艦隊は、トーキョー湾を扼しているかも知れぬ。どう切り抜けたものか、と士官室では毎日頭を悩ましていた。 「高千穂」 は 「チャールストン」 とよく似ているから、あのアメリカ巡洋艦と同じ色に塗り替えて、シナ艦隊が居たらアメリカに国旗を立てて突入してゆこうではないか、というので、アメリカの軍艦旗まで用意していたと先輩は苦笑しながら話してくれた。
八代六郎ともあろう豪傑でさえ、そんなふうに考えたというくらいだから、1894年7月初めの日本海軍の実力の程も覗われる。
ウラガ沖まで来ると、出迎えにヨコスカから嚮導船が来ている。誰だったか大きな声で、
「戦いは、は、じ、ま、っ、た、か、──」 と叫ぶと
「ま、だ、で〜す。みんなサ、セ、ホにいって、ヨコスカは、ガラアキで〜す!」 と答える。
その声はいつまでも耳に残っている。あのころはそれくらい緊張していたものだと八代の回顧する話を、広瀬は思い出した。

それにつけても、八代との縁は深い。あの時広瀬は 「門司丸」 の監督だった。これはもとイギリスの商船 「ヘクター」 である。形勢が危なくなった時、日本郵船会社が急に買い上げて輸送船に仕立てたものだ。情けないことに、武装といったら旧式銃が三十挺あるだけ。小口径砲一門も備え付けていない。やっと擲爆薬が三個だけ乗せることを許された。
船員は頼みにならないし、信号助手も任せられぬ。いざという時は、自分の腕一つでやってのけるつもりだった。
兵学校に四年学び、海軍に六年勤めて、あげくの果てに戦争になったら、自分の受けた訓令は的に会う時は逃げろというのだ。これじゃあ普段学んだものの逆ではないか。気色が悪いったらありやしない。いざとなったら船ごとぶつけてやる。擲爆薬を投げつけてやる。日本刀で切り込んでやる。当身で倒してやる。最後は船を焼いて沈むだけだ── と覚悟を決めていた
が、突然、電報が来た。 「高千穂」 は六月十九日、ハワイを出たというが、未だ着かぬ。輸送船 「門司丸」 をして小笠原群島附近を捜索させ、ヨコスカに来て復命させよ、という大臣命令である。
七月八日の夜十時半にその電報を受けると、すぐ出港した。この電文は広瀬をドキンとさせた。二年前の秋、水雷砲艦 「千島」 が沈んだ時、すぐ出動して漂流物を拾えという命令を受けた。あの時実にイヤな目にあったが、今度もまた同じ目に遭うのではないかという、けねんがあったからである。
「千島」 には水雷術を教えてくれた宮内大尉が乗っていた。電報を受けた翌朝伊予の柳浦に入ると、 「千島」 はもう跡形もない。九十名の乗組員のうち、助かったのは十六人だけだった。軍帽が一つ波間に浮んでいた。それが宮内大尉のものだった。あの日の悲痛な気持ちは、今でも残っている。あの時も先生を失った。 「高千穂」 にも先生が居る。ロシヤ語を習った八代大尉だ。その人の遺品を今度も手にするのではないかと思うと、不安でたまらなかった。

トップを仮設させて、明けても暮れても見張りを厳重にさせた。小笠原島では、父島の二見港に入り、母島の西沿岸を探り、北に向かって、群島の東沿岸を巡り、八丈島をのぞき、七月九日午前六時から、十六日午前九時まで、一週間を血眼で捜索に費やした。しかも 「高千穂」 は見えない。
ヨコスカに入ったときは、 「高千穂」 が居るに違いないと思って望遠鏡で探すと、トップが見えた。ああ 「高千穂」 だ、と安心して、近づいてみると、 「扶桑」 の新しいトップなのだ。驚き慌てた。
「天城」 を呼んで、 「ドックに入っているの艦はなにか──。」 と尋ねると、 「盤白だ──。」 という答えだった。
その刹那、 「高千穂」 は未だ帰ってこないのかと思って不安が急に高まった。そこへ港務部のランチが乗り付けて、 「高千穂」 は帰ってきたが、昨日の朝、また出て行った、という情報をもたらした。
思わずホッとして、責務の終った安堵感を覚えると共に、八代大尉の無事をかげながら喜んだのである。

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