『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第六章・東 洋 の 風 雲 う ご く ==

八月の半ばはもう秋で、朝夕肌寒く、七時ごろには灯をともすようになった。
その頃陸軍大学校教官田中義一大尉がロシヤ事情の研究に派遣されてやってきた。長州萩の出身、。三十四になる大男で、さっぱりした親分肌の性格である。
広瀬たちとはたちまち親しくなった。林公使の紹介でロシヤの上流社会に接近したが、陸軍の機密費を沢山持っていると見えて、行動は眼をみはらすように派手だ。
その頃のロシヤ陸軍は、世界一であるから、各国の武官がこの国の陸軍を研究しようと思って、集まってきている。なかなか外人将校を隊付武官なぞにはさせないのである。田中は、金を散じてその筋の厚意を得て、とうとうアレクサンドル三世連隊付きの将校となった。昼間はロシヤ陸軍の営舎中に起居している。夜は各種各様の階級のロシヤ人と付き合って、なかなか聞き出せないような情報を手に入れてくる。その活躍ぶりはめざましかった。

田中は、広瀬や八代とよく議論をする。ロシヤの内情のつかみ方も早かった。
彼によると、ロシヤの内情は思ったより腐敗している。国民はみんな不平不満で一杯だ。その不平等を和らげるには内政を改善せねばならぬ。ところが政府の当局者には、改革に手をつける気配がとんと見えない。実は内政の改革を考えぬ訳ではないが、すでに積弊は積み重なりすぎて、到底一朝一夕には改善できないところまで来ている。
そこで対外的、特に東洋に対して大芝居を打つことを、当局者は唯一の国策とせざるを得ない。この対東洋の大芝居がもし一度失敗すれば、到底収拾できぬ事態に立ち至るだろう。
さらにロシヤの革命党の一派は、この気運に乗じて、帝政を覆そうと願っている。彼等はむしろ政府が対外的な大仕事に猛進すればするほどかえってあり難いと考えて、暗々裡にそうした気運を誘導するありさまである。
ロシヤ政府はこれからますます外に対し、ことに東洋に対して、一層侵略的方向に出てくるに違いない。日本としてはただ外交に頼って局面が解決されるなどと思うのは間違いであって、いずれ一大衝突はまぬかれまいというのである。

ロシヤ陸軍に関する専門家のそういう見通しを聞くにつけ、日本の政治界のことが気に掛かる。
日本の事情について、広瀬はもっぱら 「時事新報」 によっていた。観察も公平だし、報道も確実だ。社説は、折々奇警に過ぎると思われるときもあったが、まず大体、社会の進運に従って、真面目な議論を立てていると判じられた。リクリェーション方面には小説もあり、講談もあり、婦人子供にも読ませる欄もあって、全体的に信用の置けるいい新聞だと考えていた。
彼は東京の兄嫁に頼んで、この新聞を送ってもらっていた。故郷の父ははじめ地方新聞を送ってくれたが、記事がつまらないし、手数だから断った。すると 「中央新聞」 をタネにして、いろいろなことを言って来る。これには弱った。あれは政党の機関新聞だから、曲説は勿論、事実を曲げて報道する弊がある。、あの間違った記事によって父は議論を立てるが、とにかく父は郷党の名士で、多少は人を動かす声望もあるから、一言一句も青年を誤まらせては困るのに、いつも間違った報道を信じ、自ら先ず信じて人にもそれを信じさせるのは閉口だ。彼はとうとう我慢しかねて、1898年9月半ば父に向かって、 「中央」 はやめて欲しい。その代わりに 「時事」 を送らせますと直言した。これはキキ目があった。
それにしても故国の政情は、彼の心を痛めた。

1897年冬、広瀬はロシヤに着いて間もなく、松方内閣は倒れた。ただ議員を買収したり、仲間同士で内輪喧嘩をしたり、風紀はすっかり地に落ちた。松方や樺山のやりかたは今まで多少実直とか誠意とかあるものと思い込んでいたけれど、結局何もなかったのか。議会を解散して、国民に信任を問うまで待てず、潰れるなどというのは、遠く外国から見ていると、国家の為嘆かわしい。腹が立つ。
98年一月伊藤内閣が成立した。せめて真面目にやってもらいたい。それにしても政府は増税、議会は軍備縮小── これはいい取り組みだぞ。どういう結果になるのか。かたずを飲んでみていると、結局長持ちせず、98年には大隈と板垣を中心とする政党内閣が初めて生まれた。
慷慨家の父はロクな政治家が居ないといって慷慨してきたが、日本も憲政を布いて頭数で政治を試みると決めた以上は、政党内閣になるのは当然だ。政党内閣でもちっとも差し支えない。ただ藩閥が退いて、党閥が代わって出てくるのでは困る。イギリスだと公私の別がはっきりして憲政に多少の経験を積んでいる国だから、この種の政治形態も上手くやれるだろうが、日本のように低い民度と無経験ではどんなものか、先が案じられる。
そのうち政権党が旧自由系と旧進歩系に分裂して、いがみ合いを始めて野垂れ死をした。
「大隈伯ノ手腕ナド三文ノ値ナク、板垣伯ナドノ愚痴メキタル、落魄ノ老生其年少ノ豪興ヲ翻スルニ似タル非カ」 と彼はこき下ろした。
国民協会というのは普段政治に好意を持っている議員の団体だが、主義は一貫していないから、政党の名は許せない。頭株の山県とか品川弥二郎とかは無定見で、表に忠義の仮面をかぶって、ウラにはいやらしい策を弄する。党員はただ利を狙って行動するから、到底勢力は得られまいと思うて、普段から嫌いだった。

その片山内閣が秋には成立した。
「山県ナドノ出タル気ノ知レザルコト。仝氏ガ日露協商始末ナドヲ聞カバ、誰カ氏ガ卑劣ナルニ驚カザルヲ得ンヤ。・・・・・・樺山買収ヲ行フテ敗レ、年ヲ経ズシテ又出現。シカモ文部トハ、胸中如何ナル成行カアル。」
要するに日本政界には 「一モ気ニ喰フ政客ナシ。混々沌々怨憤慷慨此事ニ御座候」 (1898年9月15日) と彼は罵倒しつくした。

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