『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第六章・東 洋 の 風 雲 う ご く ==

八月一日、イギリス公使館づき武官宮川令次郎少佐がペテルブルグに遊びに来た。村上少佐と同級で金沢の人。山本軍務局長からは大変信用されている。軍令部の参謀や侍従武官を務め、1895年10月からイギリスに居て、長いこと海上勤務から離れていたが、濶達で、明るい、立派な人柄で、部内でもごく評判のよい中堅将校だった。
八代は去年の初夏、イギリスでいろいろ世話になったから、年を入れて案内した。内田大佐の一行と同じような造船所や造兵廠を見学した。オブホーフスキーはことに入念に見た。

ネフスキー大通りから鉄道馬車で東南に向かう。モスクワ行きの停車場前で汽車に乗り換え、河に沿って南へ下る。また鉄道馬車に乗り換えて、少し行くと、オブホーフスキー造兵廠が見える。去年の冬、兄たちを案内した所だネヴァ河の西岸、河口から二十マイルぐらいあるだろうか。まつたいらな土地に大きな工場が方々に建っている。
先ず重砲工場を見学した。入ると、十二吋十吋八吋六吋と、重砲がずらりと並べられている。六吋は、日本のと違って四十五口径がから、一見して長いという印象を受ける。俯仰弧はひどく短い。あれで十分俯仰角を与えられるのか、なんだか怪しい気がする。十二吋の尾栓はフランス風らしい。砲底の下に横に置いたハンドルが螺扞に働いて、この螺扞の作用で尾栓が閉まる。どうもその動作が、アームストロング砲に比べると、ひどく遅く鈍いように思う。あとで川島少佐は、そう批評していた。

甲鉄板仕上工場では、甲鉄板用7500トンのスチーム・ブレスに目を見張った。これは去年の冬には未だ出来ていなかったものだ。
旋条機は、イギリス式ではない。川島の説ではクルップ会社で使うのと同じものだという。
水雷工場には、十九吋十七吋十五吋と、三種の魚雷を室内いっぱいに並べてある。
砲弾製作所では、小口径砲弾の仕上げをしていたが、穿甲弾が多く、弾壁がそれほど厚くないのが注意を引いた。
一通り見終わると、蒸気船が待っていて、ネヴァ河を対岸まで渡してくれた。二、三ヶ月前までラドラ湖から氷塊が無数に流れて来て、壮観でしたと案内の士官が語った。
上陸すると汽車が待っていて発射場まで連れて行く。架台の附近、軌道の上には移動クレーン一個が備え付けられている。的を正面にして架台が三個出来ている。右の土塁は火薬庫になっているらしい。士官が監督して水兵に装填させる。六吋砲を試射したが、砲身がひどく跳ね上がった。津醉火薬を用いて試験したためだと説明された。十二吋砲は圧搾空気を使ったというが、予期の結果は得られなかったらしく、砲の後退がひどかった。

案内の士官の説明では、工員四千五百人、就業時間十時間、賃金半ルーブルから一ルーブル半ぐらい、一年に十二吋砲四門を作れる。十二吋砲一門十二ヶ月、十吋砲十ヶ月、八吋砲八ヶ月だと技術者が補足したが、その説明ははたして本当かどうか。
どの工場にも聖像 (アイコン) が祭ってある。いよいよの時、俺たちのいただく弾丸は 「ロシヤ弾、御宗旨で固まった弾なのだ。御用心、御用心」 とあとで一同は笑いこけた。

ネヴァ河の上流イジョラの工場は、広瀬も今度はじめて見た。描鎖、甲鉄板、水雷艇を作っていた。予想外に盛んだった。思いがけずここで怪我をした。水雷艇製作所を見に行った時、工場長が先にたち、八代中佐が続き、広瀬がさらにその後についた。二隻の水雷艇の間の通路はごく狭い。工員が向かい合って木の板を削っていたが、斧の手を止め、ポカンとバカ面で怪訝そうにこちらを見守っている。八代中佐が通り過ぎると、工員は斧を打ち下ろした。なんともいいようのない不注意無鉄砲な動作だった。尖先は広瀬の左膝の下、ラシャのズボンとリンネルのズボンを切りはなし、肉まで切り込んだ。工員は驚き慌てたけれども、広瀬はそのままずつと行過ぎた。しばらくしてから、後に続く川島に耳打ちした。前を行く連中は気が付かぬ。八代でさえ造船所を出てから広瀬に話で初めて承知したぐらいである。ホンの軽傷ではあったが、八代がしきりにとめるものだから、クロンシュタットまでは行かなかった。傷は間もなく癒えた。

ペテルブルグ近傍の名所は、すっかり治った広瀬が一手に引き受けて案内した。一緒に暮らしてみると、川島は、話し好きで、ヘンに垣根を設けない。前から知り合いの八代はいうまでもなく、広瀬の方では 「満足此上モナク同氏ノ高談ニヨリ自ラ益スルコトモ多ク至テ愉快ニ候ヒキ」 と勝比呂に報告した。
八代と広瀬は力を合わせて、川島を歓待した。広瀬のもてなしの足りないところは、八代が引き受けた。八代のやったことで足りないところは、広瀬が補った。それは歓待の競争とでも言うべきものだった。朋友というものは、ここなでしなければならないものか、朋友に対するよしみは、こんなにも純粋に発露出来るもにか、まるで骨肉の兄と弟のようだ。この二人の仲を川島少佐は感激して見守った。

川島は八月十五日出立、ヴァイアナ、スウィスを経由、フランスを通ってイギリスに帰っていった。
林公使夫妻は落合試補をつれて、兼務になっているスウェデンに公使館に赴いていたから、ペテルブルグの夏はさびしかった。

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