六月の一夜、公使館の一室で有志の集まりがあった。最近のロシヤの出方を憤激していた八代は議論好きなだけ、ロシヤの政策を罵倒して痛論した。
「俺は長いことロシヤ人の性質を観察しているが、大体二種類に分けられる。一つはずるいこと、一つは愚鈍なことだ。そのどっちに属する奴も欲が深いと来ている。
身体は平均されているほどそんなに高くはないが、骨格はさすがに寒国のことで、固くしっかりつくられている。なかなk日本人の及ぶところじゃない。
よく世間ではロシヤの欲望は飽きることがないというけれど、飽きるどころか、ロシヤ人は寒い国で初めから飢えているんだ。この世の中でどこの国の人間だって、快楽を望まない奴が居るもんか。ところが、目の前に快楽にふけっている奴がいて、おれ一人、飢えに迫られ寒さに震えているとすると、そして快楽に耽っている奴が弱くておれが強いとすると、その結果がどうなるかは誰だってわかる。
ロシヤは大きな国だけど、何と言ったって大部分は寒い土地だ。そこで周りを見回すと、境を接している国は、トルコだろうが、ペルシャだろうが、アフガイスタンだろうが、シナだろうが、朝鮮だろうが、みんな豊かだし、暖かだし、そうしていて、そこの人間は弱いときている。そこで寒い国で飢えているロシヤは、労最も少なくして食もっとも多いところに赴くという結論になるのだ。
ところがここにイギリスという国がある。ヨーロッパだろうがアジアだろうが、イギリス人とロシヤ人とは利害が全く相反している。ロシヤが儲けりゃ、イギリスは損をする。だからイギリスは力を尽くしてロシヤの出口をふさいでいる。ロシヤ人から言えば、イギリスに対しては恨みは骨髄というところだね。」
この八代の解明は、ロシヤの進出方向を説いて、当っていた。人々は皆頷いた。八代は話を続ける。気迫のこもった熱弁であった。
「俺がウラジヴォストークにいた1891年の春、例の大津事件が起きた。ロシヤ皇太子を傷つけたというその知らせが入ったとき、ロシヤ人はすぐにイギリス人がやったぞといった。
そのとき俺はね、実に口惜しかったけど、加害者は日本人ですと言ったら、相手は非常に機嫌が悪いんだ。そのロシヤ人がこう言うんだ、刀は日本刀だが、身体はイギリス人に買われていたんだって。イギリス人がやったことを全く疑わないんだよ。
俺は日本の為に口惜しくって、日本人は生命は売らんよ、と言いたかったけど、その前に日本人は皇室には忠義なんです、よその国の皇室にだってそのお身体に刀を突っ込むようなことはしませんよ。と言ったことがある。
なにしろロシヤ語はまだよく出来んだろう。だから辞書を開けて、言葉をいちいち指差して、こっちの心を伝えたんだ。怒った眼つきをしてね、ところが津田があのざまだろう。面目玉を潰したね。結局ものが言えなくて、だんまりさ。」
広瀬が急に口をはさんだ、
「イギリスを恨むロスケの胸の中はわかったが、どうでしょう、イギリスとロシヤとは何処でぶつかるでしょうか。」
八代は十分考え抜いていたことを聞かれた喜びを、表に現してすぐ答えた。
「トルコか、中央アジヤか、極東か──考えてみりやすぐわかる。
トルコと戦うためにはドイツ、オーストリヤから横槍が入ることを覚悟せにやいかんだろう。中央アジヤはイギリスの金庫だ。あそこに火がつきやイギリスは必死になって防禦するに決まっているよ。
そこで、残るのは極東だ。極東できっとごたごたがおきるね。
ロシヤは少なくとも94年のシナとの戦争の前には、日本と熱心に結びつこうとしていた。俺はウラジヴォストークに居たころ、それはちゃんと見て取った。あのころの形勢ではロシヤとシナとはよくなかった。それはね、1860年の冬に、ウスーリ一帯を満州からかっぱらったのだ。かっぱわられたシナは、非常にロシヤを恨んでいたよ。そこでシナは北の国境に兵力を集めた。ロシヤたるもの覚悟せにゃいかん。そこで日本との関係だが・・・・・
「日本との関係は、どう見てますか?」
「日本とはカラフトと千島を交換してから、別にこれという拙いことはない。むしろ親密な間柄だろう。
シナは、琉球を名実ともに日本に渡してからというもの、あるいは日本に恨みを持っているかもしれん。
ロシヤとしては自分によくないシナを挟んでいるから、日本と結ぶのが一番得策だ。もしロシヤが日本とよくないならば、イギリスも喜ぶし、シナも喜ぶ。そのうち日本、シナ、イギリスの連合艦隊が、チョーセン海峡とエゾ海峡を南と北で抑えてしまえば、戦はせずともロシヤの東洋における勢力は地に落ちてしまう。
大津事件の時はロシヤの政治家は手を打って喜んだね。俺はあの時は本当は心配したよ。たかが知れた一狂人の為に日本が仕方なくなってロシヤと結びはしないかと思ってさ。とてもビクビクしたんだ。
榎本武揚さんを外務大臣に担ぎ出したろう。もし日本がロシヤと結ばねばならぬ勢いになれば、それは大変なことになると思ったね。
第一、日本にはイギリス、シナの両国に対抗できる兵力があるかどうか。仮に有ったところで、ロシヤと合体してイギリスとシナの連合軍と戦うとすれば、兵力はロシヤが主で日本が從となるが、実際ほんとに戦うのは日本が主でロシヤが從となる勢いだ。こんな例えはどうかね──」
と言いかけて、八代は列座の人々の顔を見回した。
「いいかい。大男と小人が一緒に遊んで歩いていた。山賊がきれいな女を苦しめているのを見た小人は、小さいけれど勇気があるので、すすんでその美人を助けるんだが、戦って片腕を無くしてしまう。
大男は手傷を負うどころか何ともない。その上その美人を女房にしてしまう。
もう少し進んで行くと、また族が出てきた。小人も大男も一緒に躍りかかって族を殺すんだ。大男はまた手傷を負わないが、小人は片足を無くしてしまう。大男は名誉も利益も自分のものにするが、小人は片輪になっちゃた。同盟などというけれど、両方の力が平等でない場合に一緒になれば、いずれこんなもんだという小噺があるよ。」
と八代は苦笑した──
「日本がロシヤと結託すれば、その結果は先ずこんなところが落ちだろう。そこでね、あの大津事件の直後、俺は日本の前途を案じて、四、五日飯が喉を通らぬほど心配した。
あの時俺は、あの事件をきっかけに日本はロシヤと離れたほうがいいという結論になったのだ。
三国干渉でロシヤはとうとう正体を暴露した。手を握れぬどころか、いよいよロシヤに対しては恨みを深くした。
そこで最近の国際情勢だがね、ロシヤの人工は一億。年々増える一方だ。アムール河に沿ってシナ境に移って行くとすると、北シベリアの荒野を開拓なんぞはせん。もっと南の満州のように豊かな土地に手を伸ばすだろう。果たして今度、満州まで手に入れた。シナはね、シナは東洋でロシヤに侵略される。これから段々ひどくなるだろう。
一方ロシヤの東洋経営は着々進んでいる。ウラジヴォストークにはドックも造ったし、シベリヤ鉄道も開いたし、バルッチク艦隊の四分の一を割いて、ウラジヴォストークを根拠地にした東洋艦隊を盛んにしたし、いよいよやるぞ。
でもウラジヴォストークは冬凍るから、今度は凍らぬ旅順を東洋艦隊の根拠地にすると思う。
今まで俺はシナさえしっかりしておれば、シナとロシヤが戦う。こっちは静かに兵力を養って高みの見物をするのがいいと思っていたが、その後の形勢を見ていると、シナにはもうそんな実力はない。そこでこれからロシヤの圧力を直接に受けるものは東洋では日本だということになってくる。満州からチョーセンのことに絡んで、いずれ東洋の大動乱は始まるぜ。」
これが口角泡を飛ばして一気に論じきった八代中佐の主張の骨子であった。
話ははずんで夜は更けた。でも空は晴れて、暮れなずむ夕暮れの白い光がいつまでも漂う。暮れたのやら明けたのやら、わからない。一時ごろに散会したが、天すでに明けて物のあいろもはっきりしているし、なんとなくきまりが悪い。二時ごろにはもうばら色の光ガ、家々の屋根や壁をうっすらとそめる。
「ベーラヤ・ノーチ」 (白夜) と呼ばれるペテルベルグ特有の神秘的現象である。
広瀬は前からクロンシュタット軍港に在留したいという希望を持っていた。かねて世話になっていた軍務局課長フォン・ニーデルメルデル大佐が、東洋艦隊の
「バーミャット・アゾヴァ」 艦長に新任されていよいよ極東に赴くという挨拶に来た時、八代少佐が依頼すると、大佐は私案を起草してくれた。それをもとにして林公使から軍務局長宛てに広瀬大尉のクロンシュタット居住願いを差し出したところ、七月に却下されていたのが分った。失望すると共に、ロシヤ側の猜忌心を持っている証拠もあり、八代の言葉と思い合わせて当局者のハラの中も読めるような気がした。
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