この若い客人のため、広瀬は毎日のように名所古跡や寺院を案内した。ペテルブルグど一番立派で一番大きいお寺といわれるイサコフ寺院は、1858年に、有名なフランスの建築家ルカール・ド・モンフェランが設計した。二千三百万ルーブル以上もかかったといって、その経費には当時の人々が驚いたものである。ギリシャ十字の型をして、長さ百十メートル、幅百メートルある金色の大ドームは、どんなに遠くからでも仰ぎ見られる。全部大理石と花崗岩から出来ているが、ただの立派さを通り越して、壮麗無比とでも形容したい。
内田を案内して中へ入ると、ローマーのサン・ピエトロ寺院に似ているといわれるほどであって、壁という壁はどれもロシヤの美術家の手になった二百枚近い壁画に飾られている。聖母マリアが聖徒たちに囲まれている絵もある。馬鹿でかい天使のブロンズ像もある。聖壇は白大理石でつくられていて、ステンドグラスにはキリスト復活の光景が図案化されている。ロシヤ皇帝が寄付したという品物は、みんな金銀細工で、素晴らしい国宝ばかりである。
内田は思わずため息ついて、
「日光でさえこれを見ると結構とはいえないね。」
と洒落を飛ばすと、広瀬は急に真顔になって、
「日本でも金が欲しい。こんなバカな建物をこしらえる金があるなら、有力な戦闘艦の五、六隻もできるよ。
日本は金を持たぬのが玉にきずだ。このお寺はじつに広大、美麗な建物だが、石造だからね、地盤がその重さをさせきれないで、年々五分ぐらいずつ埋没してゆくそうだ。だから、結局いくら大金を投じて建築したといっても、とどのつまり、地面の下に葬られてしまうわけだ。ロシヤじんという奴は、じつに馬鹿なもんだよ。」
と言って、苦笑いした。
内田はペテルブルグに二十日ほど滞在して、広瀬や八代や島川から情報を貰ったり、意見を聞かされたりした。
なかなかの才人で、要領のつかみ方は早かった。彼は三月二十二日、広瀬達に送られて、ベルリンから帰東する野中勝明
(カツアキ) (砲兵) 少佐と一緒に、再びシベリヤを通って日本に帰った。
広瀬は嘉納治五郎に内田のロシヤにおける消息を伝え、七月ごろには彼も東上するだろうと予報した。
講道館の幹事富田常次郎と、彼とはことに別懇だった。富田は伊豆韮山の出身で、小兵だが、嘉納の一番弟子。広瀬よりは三つ年上だった。
「ユヌオン・リーダー」 の四の巻をすらすら読むような学才もあって、講道館の事務局長格で熱心にP・Rをする。ロシヤに来た広瀬にも、たびたび手紙をくれるので、トーキョーの柔道会のことは、手にとるように彼のもわかっていた。
1898年初めには、横山作次郎、山下義韶 (ヨシアキ) などの古豪は、六段にのぼり、富田は五段に進んだ。新進永岡秀一は四段に、平山、山崎などの若手も二段になった。技倆からみて、経歴からみて、功労からみて、もっともな昇進である。
広瀬の思い出には、柔道狂と呼ばれた兵学校の聖徒の頃の寒稽古のある日がありありと浮んできた。
築地から京橋、日本橋、神田、と一気に駆け抜けて、九段は飛び越えるほどの勢いで駆け上がり、汗ぐっしょりになって富士見町の道場に駆けつけたのだ。
少尉に任官してからも、品川に軍艦が入ると、軍服を行きつけの宿に脱ぎ捨て、その子供の小学生の袴を借りてゆかたの上に着け、一気に講道館に駆けつけたこともあった。
あの頃の思い出が懐かしい。それにつけても、広瀬はもう三十になった。いくらか老いこんだという気持があるし、万里の異郷に居て修練をつめないのがくやしい。なんとか工夫して、稽古が出来るようにしたい、と考えた。
彼は五月に入って富田に返事をするとき、ますます柔道の発展を祈るとともに、次のようなロシヤ事情を書いて送った。内田たちとの談話などから、まだ興奮が醒めなかったのである。
露ハ農本
主義ニテ、立国
セルモノナルガ、今年
国内大
ニ飢
エ、屋根ヲ剥
ギ、戸ヲ壊
シ、馬ヲ飼
ヒ、暖
ヲトル地方モ有之由
。 馬
ヲ売リ、耕
具
ヲ売リ、蒔
クベキ種
子
ヲ喰
ヒ尽
シシ地方アリト申スコト有之
、来年モ一様
ノコトナラン。 外
ニ余リ拡
リ過
グルモノ、内ニハ随分
弱点モアルモノニ有之候。 気候昨今暖
ク、一週間前ヨリ野ニ漸
ク微
青
ヲ認
メ申候、日
脚
ハ冬ニ比
シテ非常ニ延
ビ、冬朝
九時半、憂二時半ニハ点燈
ノ下ニアラズンバ、読書致兼
候モノ、昨今ハ朝三時半、夕八時窓前
ナホ字ヲ辨
ズベシ。 アゝ総
テ極
ヨリ極
ニ走
ルハ、当露国ノコトニ有之
候。 故
旧
ノ動静ヲ聞
ク、愉快ニ不堪
候。御閑暇ノ砌
、今後共
御
書信
奉煩
候。
五月五日 (露暦四月二十三日)
在露都 広瀬武夫
富田常次郎様 机下
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