『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第五章・講 道 館 の 知 友 ==

広瀬は久しぶりで会ったこの若者の国を憂いる熱気に打たれて、最近のロシヤ政府の極東政策について、いろいろ情報を伝えた。
去年の秋、山東 (シャントウン) でドイツ宣教師が二人殺された。それを口実にして、ドイツ政府は有力な艦隊を極東に送って、シナ側の言い分はひとつも聞き入れず、十一月半ばには遮二無二膠州湾を占領した。ずいぶんひどい言い掛かりで、理屈も何もありはしない。林公使はこの件に付いてロシヤ外務省の意向を尋ねたところ、ムラヴィヨーフ伯爵は、 「おそらくカイゼルは、ドイツ海軍の拡張をはかる為に、あそこの土地を欲しがったのでしょう」 と答えた。そこで林さんが、 「ロシヤ政府は事前に御相談をお受けになりましたか」 と尋ねたところ、ムラヴィヨーフ伯爵は、 「いや存じません。まったく占領後に通知を受けただけです」 と答えたという話だ。
これは確かな聞き込みだかね。・・・・・・・
「どうでしょう。ドイツとロシヤとの間に密約があるのじゃないんですか。」
「いや、それはないらしい。だがロシヤだって極東に不凍港を求めているんだから、ドイツが膠州湾を無理やり手に入れた以上黙っているはずはない。きっと何かやる。
じつは、小村寿太郎の乾分で、新聞の通信員という資格でこの頃来た島川毅三郎というのがいるんだ。こいつは屈指のシナ事情通でね。シナ語もよく出来るから、シナ公使館の連中とはごく親しい付き合いをしているよ。
この島川がね、ロシヤ側が遼東半島を借り受けようとして、極秘のうちにシナに交渉しているらしいのを嗅ぎ付けてね、その密約の内容を聞き出して、林公使にお知らせしてあるんだ。
ドイツ艦隊が膠州湾に入ったと聞くと、ロシヤ側も腕づくで旅順と大連を占領するため、輸送船を護送する艦隊を派遣したんだ。シナ政府に遼東半島をただで貸せという要求をロシヤの代理公使はいまシナ側に付き付けているというんだ。シナ側が承知するはずはないね。
西太后は、イギリスと日本が後ろ盾になってくれると思って一歩も退かないらしいんだ。このままではロシヤとシナとは戦争になる。それじゃあ拙いんで、シナ側を口説き落とす為に、莫大なワイロを送って軟化させようと、いま北京のロシヤ財務官は大わらわになっているという噂だぜ。
「そこで見通しはどうですか。」
「結局シナ側が折れて、ロシヤ側の圧力に屈服するね。まるで他人の所有地に杭をうって、俺のものだと名乗るような傍若無人のやり方を奴らはとってるんだ。
こいつは我慢できぬ。ことに日本人としては我慢できぬ。なんでも林さんの話では、ムラヴィヨーフに会った時、日本は一度旅順を占領していたことがあるから、あの辺のいい地図をお持ちでしょう、お貸し願えませんかとぬけぬけ言ったそうだ。
そこで林さんは、たしかに旅順のよい地図は沢山出来ています。でも今は公使館にはありません、仮にあったとしても御要求にはとうてい応じかねます。そういいながらムラヴィヨーフの顔を見てにやつと笑ったら、相手も苦笑いして 「ご尤も、ご尤も」 と頷いていたそうだよ。じつに人を食った奴だ。

なにしろロシヤとドイツ とフランス、三大強国の干渉のため、血をもって勝ち取った遼東半島をもぎ取られるような気持ちで、日本は還付してしまった。国をあげて 「悲憤慷慨」 したといえるだろう。 「臥薪嘗胆」 という古い言葉が、新しい心を与えられて、国民全体の合言葉になっている。
忍び得ない屈辱に必ず酬いてやると、日本人はみな心密かに誓っている。その復讐心のまだ覚めやらぬ折も折、ロシヤはこういう態度で臨んできた。広瀬は悲憤慷慨して、ロシヤ側の暴状をののしった。
シベリヤ鉄道の現状はどうだと聞いてみると、内田は、こう言い切った・・・・・。

「リシヤのシベリヤ開拓は、日本人が想像しているほど迂遠なものじゃありません。鉄道だけではなくあらゆる施設が実にでかい。
私も夢にも思ってみなかったことが実際ゴロゴロしていて、そいつが着々と現実になっているのにはゾッとしおました。
ヨーロッパから数千名の石工や大工が入っている。イギリス人が一番多く、その次はドイツ人です。シベリヤ線の平地では、地ならしが終って、今は山を切り崩していますよ。橋はまだ充分かかっていないけれど、要所々々にはレールを敷いて、汽車の運転を始める所だってある。あと二年でだいたいウラジヴォストークまで直通するだろうと私はみましたね。
このままでいけば、十年たつうち、日本の鼻先に新しいでかい国が一つできる。そのときシナはもう滅んでいるでしょう。
チョーセンはもっと貧弱だし、ロシヤはチョーセンなど眼中にありません。まわりの邪魔者が全部滅んでしまえば、ロシヤに対して日本はまるで剥きだしだから、日本は第二のシナというわけだ。
ところが口惜しいね、今の日本人はロシヤのことを何一つ知りません。生命を投げ出して働こうという奴も一人も居やしない。日本もいよいよ終わりかね。」

このとき聞いた内田のシベリヤ旅行談と、それから出る結論とは、広瀬の胸に深く訴えて、夢魔のようにいつまでも残り、時々不気味に頭をもたげた。
その感銘は、四年の後官命によって日本に帰るとき、広瀬をして道をシベリヤにとらせ、しかも厳寒一月二月の末に雪と氷をついて荒野にそりを走らせたのである。

NEXT