『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第五章・講 道 館 の 知 友 ==

1898年三月に入ったある日、広瀬の部屋の扉を叩く日本の旅客がいた。 「入れ」 と答えると、にこにこしながら現れたのは、小柄な若者である。誰かと思えば、福岡の内田甲 (ウチダコウ) である。
広瀬は思わず、
「おや君がどうしてここへ来た。久しぶりじゃないか」 と声をかけると、
「実はシベリアから着いたばかりです。今公使館で八代中佐に会ってきました。よもやま話をしているうちに、広瀬も来ているよ、というから海軍の広瀬さんですかと聞くと、そうだ広瀬大尉だよ、という答えに貴方の顔が急に浮んで、とても懐かしかったから、こちらへ来たのです」
と答えた。
内田は講道館で顔なじみであった。十八才ぐらいから知っている。大変気骨のある男で、柔道もなかなかの猛者だった。チョーセンでは 「天佑侠」 と名乗って、暴れまくった日本人 「浪人」 の急先鋒である。チョーセン、シナの問題から進んでロシヤの東進政策に着目していろいろ調べたり論じたりしていると聞いていたが、祖国愛に燃えた九州男児の典型みたいな男であった。シベリアから着いたばかりでは、さだめし疲れているだろうと、広瀬は内田をわが部屋に泊めて、その夜は旅行談を中心に二人いろいろ語りあった。

内田は、1895年の秋から、同志とウラジヴォストークに梁山伯的道場をかまえて、各種の調査や実測をやっていた。去年は同志も増えたから、本願寺の別院に道場を移して、筋骨を鍛えながらシベリヤ事情を研究してみた。
「なにしろシベリヤ鉄道はウラジヴォストークからイーマンまでしか続いていない。イーマンから先は汽船に乗ってね、ウスーリ河をおりてハバロフスクに行ってみました。ハバロフスクからブラゴヴィエチェンスクに出る途中、中野二郎に会いましたよ。」
「中野って誰だ?」
「中野という奴は、会津のサムライのせがれです。荒尾精がハンカオにいたころは片腕だったというエラものです。私の方の玄洋社とは縁が深い。叔父の平岡浩太郎も褒めていました。サッポロで 「北門新報」 という新聞を出して、そこの社長です。年は三十三、四かな、北海道のロシヤ語の研究機関はあいつがぎゅうじっているんです。
それが面白いんだ。私が船の三等にいると、二等から入って来た日本人の若い奴がいる。
「君は誰ですか」 と聞くと、 「県というものです。」 「一人旅ですか」 と重ねて聞いたところが、 「いや、二人連れです」 と答えた。 「もう一人はどなたです」 と突っ込んで聞いてみたら、 「中野二郎と申す者です」 「こいつは寄寓だ、私は内田甲ですよ」 と名乗りをあげると、県はすぐ中野を連れてきました。とても感じのいい奴でね。明るくって、なんとも言えず暖かい。円転滑脱な話しぶりで、私は惚れましたね。」
聞けば、中野は、ウスーリ一帯を視察したら、帰りにウラジヴォストークで内田に会って、ロシヤに対してどんな意見を持っているのか、いろいろ打診したかったのだそうである。
「それからずっと一緒に暮らしながら、ロシヤ事情を話し合って、中野の意見を聞いてみたのです。中野はね、ロシヤやシナの問題はどうしても人物の養成が先だ。それには語学が出来なければ話にならん、とりあえずサッポロに露清語学校を建てて、ロシヤ事情の調査に一歩を踏み出したというのです。私は大いに賛成でね、ウラジヴォストークに残してきた同志をその学校に収容してくれと中野に頼んでおきました。面白かったな、あいつと一緒に送った毎日々々は。

「アムール河はどんなだった。」
「そう。あの辺は海のように広いんです。エカテリノ・ニコルスカヤというところで面白い奇妙なものを見物しましたよ。直径一寸もあるような雹だ。まるで金平糖のような形をした氷で、そいつがジャンジャン降ってくる。船の鉄甲板も打ち抜くような勢いなんです。そこに竜巻が起こった。雹が小降りとなると、対岸の山々が奇々怪々な様子になるんです。急にむくむくと黒雲が現れて、ちょど火焔のように、柱のように渦巻きながら河の水を天高く持ち上げるんです。そこへゴロゴロッときた。と、急にその化物の雲は散ってしまって、また激しい雹が降ってくるんです。ほんとにたまげましたね。みんなびっくりしてましたね、その天変地変には。
そうそう、私たちの船とすれ違いに、川上操六の一行が乗っていた船に出合った。なんでもロシヤの総督に会見して下りてゆく途中なんです。私たちもみんな船の上で万歳を叫びました。川上の一行も帽子を振って答えてくれました。盛んなものだったな。現職の参謀次官が、シベリヤを視察するというのだから、陸軍が何を考えているか見当がつくというものだ。会えたのは偶然だが、何とも言えず私たちと意気が通じましたね。」
「そりゃ愉快だったろう。」

内田はスレチェンスクを通ったが、あの辺は両岸の景色がなかなかいい。九月の中旬紅葉がみごとで、月も美しい。ウラジヴォストークを出たときから数えると、丁度一月であった。
中野とはネルチンスクで別れた。そこで冬越しするつもりだったが、急に思い立って馬車で出立した。チタで懐を探るとまだ二十ルーブルそこそこあったから、イルクーツクまでのそうという気持ちになったが、ウエルフネー・ウジンスカヤ村まで来た時、懐中もはや十ルーブルしか残っていない。このままいけば金がなくなると思ったから、荷物をしょって足に任せて歩き出した。別に危険なことはなかったが、寒いのには閉口した。身体どころか、心まで凍りつくような寒さだ。チタを出たときなぞ大変な大雪で、寒い寒い。ウラジヴォストークよりもっと寒い。なにしろ防寒具といったら外套だけだ。でも、どうやら無事に船でバイカル湖を渡った。イクルーツクに着いたのは、十月二十五日だが、もう旅費は残っていない。仕方がないから、護身用のピストルを売り払って、福岡から兼ねがくるまでのつなぎにした・・・・・・。

「木賃宿にごろごろして、三ヶ月もいたでしょうか。木賃宿にいる悲しさには、手紙を書いていると、下衆のロスケが回りにうようよたかって、いたずらをするんです。シナの文字と似ているねなんぞと囃しやがる。そのとき、腰折れをつくって福岡の叔父起に送りましたが、ちょっとご披露しましょう。
  “身の上に かかることとは 白雪の 降りしく空を 眺めけるかな”
  “降りかかる 時雨の山を 打ち越えて 晴れ行く空に 三日月の影”
どうですか、木賃宿では、狂歌を一つものにしたね。笑っちゃいけませんよ。
  “ここまでは たどり来つれど 金はなく しかたがなくて イルクーツクス”
そんなわけでイルクーツクを中心に、今年は中央シベリヤの事情を調べて、旅費が着くと早々とこちらへやって来たというわけなんです。」
二十五才の若さだけに元気のいい内田の長話は、大体そういうことに終始していた。

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