1897年は暮れて、吹雪と酷寒のなかに新しい年は来た。元旦の夜遅く彼は筆をとって巻紙に筆を走らせた。
「新春ノ佳
儀
千里同風和
気
満堂
ノ間
祖母様御両親様始
メ皆々様御一統御
超
歳
被
遊
候事ト存ジ候 大
慶
大
賀
之上モナキコトト雀
躍
罷
在
候 従
テ武夫事
雪深キ風寒キ露西亜ノ都
ニテ無事ニ迎
新
致
候間
乍憚
御休神可被下
候 只々生
来
嘗
テナキ淋
敷
キ新年ニテ屠
蘇
モ無ケレバ雑
煮
モナシ (特ニ遺憾ヲ覚
ユ) 鱠
ナク、数
ノ子
ナク、飾
物
一
モナキ正月ニテ朝
例
ニヨリ八代中佐ノ僑
居
ニ下
リ一
椀
ノ紅茶ヲ喫
シタル後
打
連
レ大
礼
服
ニテ公使館ニ赴
キ両陛下ノ御写真ヲ拝
シ候ノミ其
夜
公使ノ招
待
ニテ在留日本人主客十五人当府ノ料理屋ニテ祝
盃
ヲ挙
ゲ申候ノミ其
席
ヨリ帰
寓
直
チニ筆ヲ援
リテ遥
ニ新年ノ御
慶
ヲ申
述候
也 謹
言
一月一日午後十時 露都ニテ
祖母上様
御両親様
「勿論露西亜ハ暦日異
ナリ来ル十三日当地ノ元旦ニ有
之
候 日本ノ日ヨリ丸十二日常
ニ後
レシモノト御承知ヲ乞フ (武夫ノ手紙ニハ常ニ日本暦ヲ用イ申候) 」
このただし書きに注意したように、ロシヤ暦はユリウス・ケサルが決めたものを守って、西ヨーロッパ一般に行われているグレオリウス暦より十三日おくれている。そのロシヤの真冬に入ったが、気候は予想外に温暖で、雹ではなく雨の降った日もある。寒い日は零下十八度というのが二回もあった。しかし室内はストーヴで暖めるから、日本の冬座敷よりずっと暖かい。
一歩外に出ると、しかし骨身に沁む寒さである。どんなに高くとも、毛皮の外套がなくてはすまされぬ。広瀬は一般用の毛裏外套は調えたが、
「シネーリ」 にはまだ手が出なかった。
一月二十日の夜のことである。昨日受け取った父よりの便りに、祖母が衰弱の気味で寝ていると書いてあったのに驚いて、彼は筆を執っていた。
「御高齢ノコトニ候ヘバ時節柄御保養専一ノコトニ有之国元御一同ニモ嘸
々
御介護ニ御骨折遊バス事ト察
申
候。武夫事実ニ万里ノ海
山
隔
リ候事
故
御看病モ出
来
仝
ジク御枕元に侍
ルノ機会ハ本国ニアリテモ海軍ノ勤
メ故
到
底
致シ兼
候義
ニ候ヘ共
多少御
慰
申ス手段モ可有之
ニ斯
クモ相
離
レ只
々
心ニ思フ許
リ如
何
様
ノ詮
術
ナク徒
ラニ東
ヲ望ンデ御快癒ヲ祈リ居
申
候・・・・・・
御祖母様ニ申
上
候、武夫帰朝迄ハ必ズ御
存
命
可有之
トノ御約束、必ズ御
弱
遊
バス等ノコトナク平常ノ如
ク御元気ニ御
暮
シアランコト呉
々
モ御
願
申上候」
と書きつづけているところに、父の手紙がまた着いた。
祖母が亡くなった。去年の暮れの十一日、少しの苦痛もなく、静かに念仏を唱えながら、ゆっくり遺言をしおわって、眠るように往生した。お前には早く知らせても仕方ないから、電報も打たなかった。悪しからずという知らせである。
なんと言うことだ。祖母が亡くなった!祖母が亡くなった!!。
祖母は智満子 (チマコ) といって、広瀬にとってはかけがえのない大事な人である。八つの時に死に別れた広瀬の母登久子
(トクコ) が後に残した子供達を引き受けて、勝比呂も武夫も一人前の人物に育て上げた。
1817年生まれだから、六十才といえば、楽隠居の身になれるのに、その時から、祖母はやもめの父のため貧乏士族の家計を女手一つで切り盛りした。彼女は身体も丈夫で、最後まで目は見え耳は聞え、薬を飲んだことがないといわれるほど無病息災の人だった。
それだけまた子供達の訓育は厳格だった。広瀬が口癖のように 「われを生むは父母、われを育むは祖母」 と言っていたくらい、広瀬の人間形成に、祖母の実践する教えは大きな役割を占めていた。
普段は大人しいが、一度決心したとなるとどこまでもやり通す広瀬の人柄などは、この祖母の血を真っ直ぐに受けついでいたもののようにみえる。
十六のとき広瀬は、飛騨の高山の小学校を卒業して一時、代用教員をしていた。父が岐阜の裁判官に転じた。兄は東京の兵学校に学んでいる。一人残されて、こんな山また山の山奥に朽ち果てる身にはなりたくないと、父に頼んだが、手もとが苦しくて、その願いはかなえられなかった。
「御祖母様ノ御恩ハ、山ヨリモ高ク海ヨリモ深ケレドモ、学問ヲナシテヨキ人トナランタメ、父上ノトコロニ参リ候。御安心下サレ度候」
という書置きを残して、1メートルも降り積もった大雪の山道を下りて行く父の駕籠の後を追うて飛び出したが、結局願いを遂げないでまたとぼとぼと帰ってきたとき、慰めすかして導いて諭してくれたのは六十八になる祖母ではなかったか。
苦しい家計の中から東京に遊学して、兵学校の入学試験に及第した十八の秋、一番先に知らせもしたし、また一番喜んでくれたは七十になる祖母ではなかったか。
「陳者
下
肖
頑
児
漸
ク海
軍
ニ入ル事ヲ得
候
処
、御
祖
母
公
厳
大
人
ノ御
歓
喜
、不一方
候
由
、尊
翰
ニテ領
承
仕
候
。殊更
御祖母公大
歓
喜
被成
候
由
、不
肖
頑児ニ於
テ大満悦
ノ事
ニ御
座
候
。幼齢
ヨリ御
覆育
ノ御
鴻恩
ヲ蒙
リ未
ダ御
膝
下
ニ於
テ朝夕
奉
侍
スル能
ズ、唯
身ヲ立
テ、名
ヲ揚
ゲテ、御
恩
ニ報
ゼント存
候
処
、今回
ノ義
ニ付
キ御
歓
喜
ノ由
真
ニ不肖頑児ニ於
テ、何
ノ満悦
カ加之
ヤ」。
という堅苦しい手紙も、真情は伝えているつもりである。あの頃の気持ちとしていま思い出しても微笑まれる。
二十二のとき、卒業してめでたく大日本帝国の海軍少尉候補生になれた。実地練習の為 「比叡」 に乗り組んでハワイからフィジー諸島にかけて遠洋航海に乗り出したときは、さすが感激で一杯だった。どうやらこうやら一身をたててゆくことが出来るようになったのも、祖母のおかげではないか。
友達のうちカゴシマ生まれの人のお母さんに頼んで買い求めたから、品物は確かなはずの薩摩の白がすりをせめてものお礼心に、七十四才の祖母に送ったことも覚えている。
二十四のとき少尉に任官して、 「海門」 の分隊士となった時は、はじめて金筋一本を袖に巻いて飛び立つような思いだったが、すぐ朝鮮海に遠航しなけらばならなかった。あの時遠く海に浮ぶ孫をあんじて一番心配したのも、七十六の祖母ではなかったか。でも遠国への船出は海軍士官の常だし、海軍士官はかえってこれを喜ぶのだから、決して案じて下さるなと慰めたことも思い出す。
1896年5月には、七等大尉 (のちの中尉) だったが、長崎に入港した時祖母の八十の賀になるのでお祝いしたいと思った。
いろいろ考えた末、まず 「ケフオバアサマノネンガメデタクイワイモウシマス」 という電報を打った。
それから写真を二枚撮って送った。
その一枚は褌一つの裸の大男、生まれたままの姿に戻った写真である。それがこんなに丈夫な若者になれました。みんなお祖母さまのおかげです。この自分の姿を見て、其れまでに苦労を忘れて、ひんとに喜んで下さるのは、お祖母さまお一人だけです。という意味の文句を写真の裏に書き付けた。
「吾
ヲ生ムハ父
母
、吾ヲ育
ムハ祖
母
。祖母八十ノ賀
、特
ニ赤
条々
、五尺六寸ノ一
男
児
ヲ写出
シテ膝
下
ノ一笑
ニ供
ス 明治廿九年五月 頑孫
武夫 満二十八年」
というのが、その原文である。
もう一枚は、從七位勲六等の位階勲等を持つ海軍大尉 (のちの中尉) の正装に威儀を正した写真である。錦を着て故郷に帰れるいまの出世も、まったく長年てしおにかけて下さったお祖母さまのおかげである。そのお祖母さまのめでたい日につつしんでお祝い申し上げますという意味を、こんなふうに台紙の裏に書きしるした。
「祖
母
公
八十ノ寿宴
頑孫
武夫外
ニ在リ、茲
ニ撮影
ヲ呈
シ自身
ラ奉祝
スルニ代
フ 明治廿九年五月写之
」。
この二枚をあわせて送ったのが、祝宴にかけつけられぬ自分のせめてもの心やりだった。
前の写真を見て喜ぶに違いないのも祖母。後の写真を見て微笑むに違いないのも祖母。赤の他人から見れば、大の男が裸の写真を送るなどとは、気違い沙汰と見られるかも知れぬ。士官の正装で得意になっている写真を送るなどとは、ただ立身出世で凝り固まった俗物のすることと見られるかも知れぬ。
でもこの二枚を一緒に見ていただけるので、お祖母さまだけには俺の感謝の真心は通ずるにちがいない。そう思ってお送りしたが、はたして俺の思う通りに大変お喜びだった。
天にも地にも二人と居ないその祖母が死んだ! 祖母が死んだ!!
男泣きに泣きながら、彼は筆をとって、よろめく心をそのままよろめく文字に移して、紙の上に無我夢中で吐き出した。
今夕
御凶報ニ接
ス。唯々
驚愕
悲嘆
途
方
ニ暮
レ申候。御祖母様御
高
齢
ニ御
渡
候ヘ共
、平
素
ノ御健康特
ニ武夫欧洲ノ首
途
ニ、ワレ年
老
ヌレバ両三年ノ齢
モ覚束
ナシ。併
シ汝此度
国ノ為
に、遠
ク露国ヘ旅
立
ツ事ナレバ、汝ノ無
事
御
役
ニ立
チ帰朝スル迄
ハ決シテ死
ヌマジ。安心シテ勉強セヨト御励被下
、武夫モ躍躍
当地ニ旅立
仕候
。
右ノ御
元気
故
マサカ昨今御
長逝
ナドトハ夢ニモ測
リ不申
キ。然
ルニ今
此ノ悲報
アラントハ、九腸
寸断
筆ニモ口ニモ尽
シ難
ク痛恨
罷在
候。 母上様ノ御死去ノ砌
ハ未ダ頑
是
ナキ小児ニ有之
充分悲
嘆
ノ如
何
程
ナリシヤ、当時記
憶
致シ不申
候ヘバ、実
ニ今回
御祖母様ノ御
長
眠
コソ武夫ニ生来
嘗
テ有
ラザル最大悲痛ヲ与
ヘ申候。 海山
啻
ザル御
厚恩
其万ガ一ニモ酬
ユル事
ナク而
モ御病気以来万
里
相
離
レ候トハ云
へ一回ノ御見舞状モ差上
ズ、徒
ニ追悔
申上
ルノミトハ終天
ノ遺憾ニ有之
候。 御祖母様ノ御
長逝
ハ吾
広瀬一家幸福
ノ大半
ヲ奪
ヒ去
リシ者
ニ有之
候。只々
向
後
専心国家ノ為
奮励
、名ヲ挙
ゲ家
ヲ顕
ハシ御祖母様養育
ノ御
鴻恩
ヲ辱
メザルヨリ他
ニ無
シトハ又
痛恨
残懐
ノ事
ニ有之
候。
一月廿日夜十一時
露西亜ニ於テ
武夫
血涙
再拝
厳大人御膝下
男泣きに泣き続ける広瀬の悲嘆は、見るも気の毒であった。 普段はあんなに話し好きなのが、むっつりとしてものも言わない。一夜泣き明かした。二夜泣き明かした。三夜泣き明かした。・・・・十日十夜彼は泣き明かした。眼は赤くはれ、涙もかれた。とうとう眼病にまでなった。年長の八代は流石に世慣れているだけ、悲しみのきわみは人間の言葉などでは慰められないことを知っていた。彼は黙って、一緒に、真心から悲しんだ。でもこのままいけば、広瀬はひどい病気になると思ったので、二人一緒に食事をしたある日の食後、とうとう思い切って忠告した。
「広瀬、もう泣くな。君には陛下がいらっしゃる。日本がある。悲しみ嘆くのはもっともだが、もし不治の眼病にでもなるならば、それこそ地下のお祖母さんがお喜びなさらんぞ」。
すると広瀬はびくりとして、まるで夢から驚いて醒めたもののように、
「ハイ、そうです。そうです。・・・・・」
とだけくり返した。なんという素直な答えであろう。この単純正直素朴な答え方の中に、広瀬武夫という人間のあり方がありのままに流露している。
広瀬は再び快活な男に戻った。
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