『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第三章・ふぶきのなかのふるさとびと ==

実際、こんなに仲のいい友達も少なくない。二人は寄るとさわると、口角泡を飛ばして英雄や名将の話に熱中する。
広瀬は古今東西の偉人の伝記を暗記していた。 「漢楚軍談」 や 「三国志」 や 「日本外史」 が愛読書だ。 「名将言行録」 などは、わざわざロシヤまで取り寄せたくらいだ。 「経国美談」 や 「佳人之奇遇」 のうわさも時々した。
シナでは関羽、孔明、岳飛が気に入り、日本人では楠公父子、加藤清正、西郷隆盛に心酔している。これには八代も同感だった。

西洋ではアレクサンドロス大王とか、ナポレオン・ボナパルトとかは昔からなじみの英雄だが、ロシヤに来てからはピョートル大帝も尊敬の対象になったという。
聞けば、その頃ロシヤ海軍の歴史を調べてみて、海軍参考館でピョートル大帝の部屋を見た。オランダで造船術を学んでいた頃住んでいた小屋の模型だとか、家具類だとか、その頃作った小軍艦の模型だとかが置いてあった。あれを見た時は感無量だった。
そこでいろいろ調べてみると、いまのロシヤ海軍は、1885年の改革が行われるまで、ピョートル大帝創設当時のあり方のままにあった。違うところはただ機関官が入って来たのと、階級の位わけだった。
速力の速い装甲巡洋艦を主張したのもピョートルだから、いまの 「ロシヤ」 や 「リューリック」 はみんな大帝の考え方から生まれてきたのだ。
地中海艦隊を作るというのも、実現者はエカテリーナ女帝だけれど、じつはピョートルが考えておいたものだ。リバウを一等軍港に詩茶のも、大帝の考えだったし、・・・・いろいろあいますね。
ピョートル大帝を研究することが、そのままロシヤ海軍の研究になるんです。ひとつ旧をたずねて新しきを知りましょう。
スウェーデンとの戦争だって、無鉄砲な勇気という点では、スェーデンの方に分がありました。ロシヤ軍はただ忍耐力だけしか持っていません。いわばピョートルという一頭の獅子が率いる羊の大軍だし、スェーデンは一頭の羊が率いる獅子の大軍だったんです。
ロシヤ海軍に名将なんかいるもんですか。どいつもこいつも勇気も才能もありゃしません。ピョートル大帝以外には、せいぜいいいところでアプラクシン提督だけでしょう。だからスェーデン戦争に勝ったのは、まったくピョートル大帝の個人的力倆のおかげなんです。
ピョートル大帝は幾度もへまをやったが、その失敗からいつも何かを学んできました。あそこがエライ。私はほんとうに敬服しています。百五十年たったが、いまだにロシヤ海軍の生きた力になっているんです。ピョートルはね。
こういう意外な広瀬の見方には、同じようにロシヤ海軍の研究に打ち込んでいた八代の眼を開くに足るものがあった。八代は考え深そうな眼をして深く肯いた。

それから柔道談に花を咲かせる。もともと日本海軍に柔道を導き入れた原動力は、この二人だった。広瀬は、築地の兵学校の生徒だった頃、財部たちと青草の茂っている校庭で乱取りをやっていた。正式に講道館に入門したのは、それぞれ1887年11月と88年3月だった。そのとき同級でごく親しい向井弥一が85年1月にもう入門しているのを知って、彼等は驚いたり嬉しがったりした。彼等は、他の熱心な生徒たちと共に日曜日には大挙して富士見町の道場に押し寄せ、朝から夕方までぶっ通しで猛烈な稽古をした。まだ二十八、九才の師範嘉納治五郎は、この様子を見て、海軍はどうも格別だと、いつもニコニコしていたことを思い出す。江田島に移った後副課として柔道が取り入れられたのは、副官だった八代中尉の尽力がものを言っている。

柔道のことになると広瀬は熱狂して語った。特に愉快そうに話すのは、1890年の真冬、講道館で紅白勝負があった時の武勇伝である。
小外刈、押込、大腰、内股、俵投と技を尽くして、黒帯五人をつづけさまになぎ倒し、六人目の二段の大敵ととうとう引き分けになった。試合時間五十分で、息つく暇もなかった。あの時は勝った紅組がやんやの大喝采で、みんなで私を胴上げして退場しました。
先輩のいる前で私が二段にして頂いたのは、まったくあの働きからです。今でも思い出すと骨身がぞくぞくする。愉快愉快!講道館万歳!嘉納先生万歳!と叫んだもんです。
この無邪気な手柄話には八代も思わず破顔した。

こおようにうちとけてくると、広瀬の言葉には、竹田の方言が交じってくる。 「わたくし」 というのが 「wたい」 と聞える時がある。うっかりすると最後の 「い」 が聞えるか聞えないか、ごくかすかに発音されているらしい。その田舎言葉のなかにもられると、自慢話も、かえってお愛嬌になった。嫌味のない人柄のせいだろう。
八代はむしろ快くそれを聞いた、彼はもと松山姓で、長兄の義根 (ヨシネ) に仕込まれて、剣道はなかなかの使い手だった。でも柔道になると、技は講道館で四段を許された広瀬にかなうはずがない。それにロシヤのアパートだから、道場もないので、実際に腕比べは出来なかった。時々広瀬は、狭い部屋の中で敵を倒す奇妙な技を八代に教えた。
日曜日には、将棋を指したり碁を打ったりする。飛騨の高山にいた少年の頃習ったのだといって、碁はかなり打てた。八代とはまず互角の腕である。お互いに負けず嫌いの強情ぱりときているから、ある日曜の雪の日には、朝の八時から手合わせして、夜中の二時ごろまで指し続けていた。

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