『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第三章・ふぶきのなかのふるさとびと ==

郵便船の入ってくる日を待ちかねて公使館に出かけてみると、来ている便りは公文だけ。私信はまるでみない。日本を離れてからもう百日、ロシヤの都に着いてからでも二月になるというのに、やっぱり相去る万里の空とでもいうべきか。筆まめの兄嫁が弟の身を気遣って一度便りをよこしただけである。西洋に来ている友人からの便りはアメリカやイギリスやドイツから時々あったけれど、一番懐かしく思うふるさとびとの訪れのないのには、いつもがっかりした。

思いがけずドイツまで来ていた兄の勝比呂から便りが届いた。兄は九月半ば無事ニューカッスル・オン・タインに着いた。アームストロング造船所で艤装中の 「高砂」 の工事はストライキのため大分遅れた。まだしばらく余裕があるから廻航委員長内田正敏大佐のお供をして、ヨーロッパ大陸を歩いている。ついでにロシヤまで足を延ばす。よろしく頼むという手紙である。
仲の良い兄弟が二人とも海軍に入って外国勤務を命ぜられ、三十六と二十九になって、ところもあろうにロシヤの都で、互いに手を握り合えるなどということは夢にも思ってみたことはなかった。広瀬は躍り上がって喜んだ。
十二月一日、待ちに待った一行がペテルブルグに着いた。
あから顔の内田大佐は四十六才。土佐の人だ。 兵学校教官として、広瀬は運用術の手ほどきを受けた。黄海では巡洋艦 「千代田」 の艦長として奮戦した。
随行の桜幸太郎大主計は、伊東裕亨大将の女婿で三十才。部内でも知られている利け者だった。

半年ぶりに会った兄は大変元気であった。その夜、兄と弟は心ゆくまで語り明かした。
話に聞くと、兄は 「博多丸」 で回航員一同と出発、途中事無く九月四日マルセーユに着いた。日本を離れれば離れるほど、故郷が思い出された。文明とは金の世の中という意味だそうな。それを西洋に来て、しみじみ実感したと真顔で話す。
パリの月、ロンドンの花、見るもの聞くもの、ことごとく壮麗雄大なのにはあきれた。
パリでは遊覧客の馬車が多く、建物の見事なのに感じ入り、ロンドンでは荷馬車が多く、煙突と汽車の煙の黒々と深いのにびっくりした。
加藤高明公使には色々もてなされた。自転車が流行していて、公使夫人まで乗っていた。
と、兄にはめずらしい笑い話をした。
実は兄嫁の実家は、安井という名古屋の人で、安井夫人久和子 (クワコ) は、もと服部姓であった。その服部家から出て、法学士となり、三菱の婿に選ばれて、官界入りしてからトントン拍子に出世し、三十五才の若さでイギリス公使の重任に就いたのが、加藤高明なのである。外交官としては第一流の人材であり、財閥の後ろ盾に加えて剛直な気質がものをいい、社交的にもなかなかよく動いて、イギリス公使としての働きは誰でも認めた。
1897年夏有栖川宮がおいでになったときは、グラフトン・ギャレリーで大夜会を開いて大変な成功だった。もとサセックス街にあった公使館が翌 (1898) 年秋グロヴナー・ガーデンズに新築されたのも、加藤の強硬な要求によってであった。在留日本人はこれでみんな肩身が広くなったような気さえした。日英接近策を強調する政策をしばしば本省に出していたことは、加藤と竹馬の友八代大佐から弟も色々聞かされていた。

兄の話は続く──
回航員はみんな健康だ。石橋少佐も江頭大尉も元気だぞ。ニューカッスルのおれの下宿は、毎週二十五円程度。異郷のことだから、不自由ではあるが、一般に 「コンフォタブル」 だねと、きれいな英語を使った。うらの生活がにじんでいて、実感があふれていた。
この外套はロンドンで作ったものだ。本場だけに地がちがうだろう。フロック・コートはあまり必要ないが、イヴニング・コートは入用だと、衣食住にからむ日常生活の話が、ロシヤと引き比べられてありがたかった。

故郷の話も出たが、高齢の祖母が少し弱り気味だということを兄が伝えた。こんなに海山何千里を隔てては、ろくろく看病も出来ない。心に思うだけで、どうにも仕方がない。ただ東をのぞんで、早く治っていただきたいと祈るばかりであった。せめて妹や弟がお側にたびたび出掛けて看護してほしい・・・・眼の前に浮んできた祖母の面影に向かって、彼は、 「武夫が帰朝するまでは必ず生きていますとお約束なさったではありませんか。決してお弱り遊ばされないで、いつものようにお元気でお暮らし下さるよう願い上げます」 と叫んだ。

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