『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第二章・ペテルベルグの秋 ==

八代少佐の案内でコンノ・グヴァルディスキー大通りの並木道にる日本公使館に着任の挨拶に赴いた。
途中をよく見ておけと注意されて、歩いていった。みちみち八代の語るところによると、ロシヤ駐在公使男爵林菫 (タダス) は、四十七才。ちゃきちゃきの江戸っ子である。十六才の時、徳川幕府の留学生としてイギリスに渡ったが、幕府瓦解のため故国に呼び戻された。彼は榎本武揚の秘書として函館五稜郭にたてこもり、奮闘したが、官軍に捕らえられた。後自由の身になり、陸奥宗光に認められて、外交官として栄達し人だそうである。いまスエーデンに行って留守だが、帰った来たらつれてゆく・・・・白髪頭でほほ髯も白い。大変穏やかな中老人で、見方も公正である。と八代は評した。多芸多趣味には驚くべきで、碁は好きだし、水彩画もかけるし、彫刻もやる。アクセントのまるでない英語は職掌ながらあれでも通ずるのだろう。漢学もくわしく、このごろは写真を撮るのにコッっているから、君もそのうち映してもらえ、と八代はすすめた。

一等書記官は本野一郎。三十五才になる佐賀の人だが、代々外交官の家柄で、子供の時からフランスで育ち、中学も大学もリヨンで卒業した。去年からロシヤ勤務になったというが、フランス語を自由にあやつり、ジュランス人好みのあごひげをはやしている。
この人も奥宗光に認められたというが、如才の無い才人であった。挨拶すると、けふは公使の代理だといって、牛鍋で日本料理のご馳走をしてくれた。応接に出た華やかな夫人は、野村靖の娘で、社交界に知られた才媛である。これはあとで八代から教えられた。

国府寺 (コウデラ) 新作書記官は公使のお供をして不在だったが、飯島太郎書記官には挨拶した。さっぱりした東京人で、一つ年上である。外交官試補落合謙太郎という、二年前に法科大学を出たばかりの若い近江人のも引き合わされた。
ロシヤ語のよくできる磊落な通訳官は、川上俊彦 (トシツネ) といって、越後村上藩の人だそうである。外国語学校のロシヤ語科出身で、チョーセンにもいたし、アメリカにもいたが、五年前からペテルベルグ勤務になって、今年は三十五才になる。この人は広でと同じように健啖家である。のちに 「川天」 というあだ名を頂戴したほど天ぷらが好きなので、食膳が二人をとりもって、たちまち仲が好くなった。
田野豊という通訳生も、同じように外国語学校のロシヤ語科出身であった。こまめに世話してくれた。

公使館附陸軍武官としては、砲兵中佐佐内山小二郎がいた。鳥取の出身で、三十八才。手土産を持ってきたので、挨拶に出ると、十月六日に夕食に呼んでくれた。無口で、一見無愛想な人だけれど、よく勉強していると、八代はほめていた。近く大佐に上ってパリの公使館に栄転する。あとには伊東主一少佐がやって来ることも教えてくれた。
伊東はカゴシマの人。1892年5月から満三年ロシヤ留学の前歴を持ち、日本陸軍きってのロシヤ軍事通である。四十二才だが、川上操六中将に愛されて、俊才の多い参謀本部の中でもロシヤ事情にこれくらい精通している将校はないといわれているのだそうな。
これからちょくちょく公使館に顔を出す。日本人は、みな事があるにつけないにつけ、公使館に集まって話し込む。故郷を離れていると不思議に仲が好くなるようである。しばらく出てこないと心配して、安否を互いにたずねあう。

いまのニコライ二世は、ごく優しい穏やかな人で、むしろお人よしだと噂されているが、外交関係は、機微にわたるから、現状を心得ておいた上、十分に気を付けよと注意しながら、八代が親切に教えてくれた最近ロシヤの同行は、だいたい広瀬が予想していたとおりだった。一言で言うと、ロシヤ政府は、ますます極東問題に深入りしてきていた。
1896年5月13日、日本とロシアは、チョーセンにはほぼ同数の兵力を駐屯させて、それぞれ公使館を護衛する権利を互いに認め合った。日本公使小村寿太郎とロシヤ公使ウェーベルとの間に取り交わされた条約がそれである。
ニコライ二世の戴冠式をお祝いするためペテルブルグに特派された山形有朋大将は、ロシヤの外相ロバノフ・ロストフスキーとの間にいわゆる日露協定を結んで、小村・ウェーベルの取り決めを確認した。ところが1897年に入ると、ロシヤ政府は、日本政府の了解を求めないで、チョーセン陸軍を訓練するため将校数名をひそかに派遣してきた。外相大隈重信は、さっそく抗議を申し込ませた。いまの林公使がペキンから転じてきたのは、ロシヤ南下策を阻止する為であった。
林が、外相ムラヴィヨーフにあいうと、── 「その問題は、私の前任者のしたことで私は全く無関係です」 といいぬけた。八代はそのときの実話を、林男爵から事細かに聞いたそうである。

「外務大臣が代わったからと言って、一国政府の責任が変わるはずはないでしょう。」
そうつけこむと、ムラヴィヨーフは狼狽して、
「それはそうです」
と言ったが、すぐに後を続けて
「実を言うと、チョーセンの皇帝が陸軍の顧問を何人か欲しいとおっしゃったので、こちらから出したのです。外交関係を持っている一国の君主の要求は拒絶出来ませんからな。」
と、実に人を食った答えなのだ。林はすかさず、こう言った。
「それではチョーセンの皇帝が貴方にお願いするどんな要求にも貴方は応ずるおつもりですか。ロシヤが日本と協定した条約を無視して行動なさるおつもりですか。もしそうなら、ロシヤと日本との条約は、紙一枚の値も有りません。われわれは今どこに立っているのか、正確にしなければなりません。はっきり御返事を願います。」
するとムラヴィヨーフは、あわてて答えた。
「誤解してはいけません。確かにロシヤはチョーセンに陸軍顧問の将校を何人か派遣しました。今直ぐ呼び戻すわけにはいきません、ただ、その人数をこれから増すようなことはしません。貴方はこれが条約を無視したものとお考えになっているから、いずれこの埋め合わせはいたします。ただしばらく待ってください・・・・・」

どうだ、林公使はなかなかやるだろう。見たところ穏やかなおやじだが、今度の戦争から急に親しくなったイギリスと提携して、極力ロシヤの南下策を食い止めようとしtりるんだ。幸いペキンでイギリスの大使がペテルブルグでも同僚なので、イギリス大使館にはよく出かけてゆくよ。とにかくしっかりした人だね。と八代は繰り返してほめた。

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