ひるがえって、このときのロシヤを見ると、1897年中頃のロシヤは、ロマノフ王朝の独裁政治下に有った。文字通りのデスポティスムである
。
立法府である国会と、行政府である国務大臣委員会と、司法裁判府である元老院と── 表面は一応三位一体の政治形態を持っているが、実際は絶対君主の思うままに運行される。
たとえば、国会がただ予算の問題を論じ、行政府の報告を聞くだけに過ぎない。その行政府は、宮内、外交、内務、大蔵、法務、文部、交通、国有機関、陸軍、海軍と、十省から成るが、その各省は皇帝
(ツアー) に対してだけ責任を持てばよい。司法の府も有名無実だから、一切はあげて皇帝の思うがままになる仕組みだった。
そのころのロマノフ朝末期の政治の実権は、大蔵大臣セイゲル・ウィッテが握っていた。ウィッテは、アレクサンドル三世の寵臣としてロシヤの近代化に大きな役割をつとめた。ニコライ二世の即位後も、日本との戦いの後三千万銀両
(テール) の償金の捻出に苦労していたシナのために尽力して、そのお礼として北満州の一角をつらぬく東清鉄道の権益をうまうまとせしめた。
もともとウィッテは、三国干渉の発頭人である。遼東半島は断じて日本の手に渡すな、不服を言えば武力に訴えても仕方がない、必要とあらば軍費は引き受ける、と力説した。
1896年9月東清鉄道がロシヤ側の手に渡ると、ウィッテはその鉄道の沿線地方を開発して、方々に町をつくり、経済的には一儲けしよう、政治的には満州を南に下りて、東洋を抑える根拠にしようという腹だった。
しょせん彼は、武力を用いずともロシヤの東方進出は出来る、またでかしたいという気持ちがあった。
ニコライ二世もこの計画には賛成だった。日本の国力については、どこまで計算に入れていたかよく分からないが、無理じいにやりまくるという気配は、少なくとも表面には見せなかったのである。
いったいロシヤは、十八世紀まではスウェーデンを、十九世紀にはトルコを、それぞれ仮想敵としていたが、1890年代末期にはもっぱら新興ヨーロッパのドイツ海軍を目の敵にしていた。
東洋の新進日本が、1895年、96年と、第一期第二期の海軍拡張を続けているのを見ても、はたして財政的にやる遂げられるかと危ぶみ、ちょこざいな小人の滑稽な計画ぐらいに考えて、そんなに露骨な敵意は抱いていなかった。もちろんそれに備えてはいた。ロシヤ自身の海軍拡張もちゃくちゃくと行ってはいた。いかのも大国らしいゆったりとした気性で、日本関係のことをあしらっていた。
八代少佐の案内で、日本海軍のロシヤ留学生、ヒロセタケオ大尉は、ネヴァ河にそうロシヤ海軍省に挨拶に来た。
長方形の大きな立派な建物である。大理石がいくつも正面を飾っている。天使達がネヴァ河に向かって皇帝の軍旗をかざしたり、海の神の手からピョートル大帝が三叉
(ミツマタ) の戟をうけたりしている像が印象的だ・・・・・・回廊に立つと、ペテルブルグの町が見事に視界の中に収まる。
ロシヤ海軍省首脳部の組織は、
(一) 皇族の海軍元帥をもってあてる総裁、
(二) 副総裁である海軍将官の大臣、および、
(三) 十人の海軍将官、
から成り立っている。
海軍総裁は同時に海軍全体の総司令官を兼ねて、皇帝以外の何者に対しても責任を持たぬ。大臣はもっぱら予算を運用する役目を引き受ける。
その本部、即ち軍務局は、諜報課と人事課との二課をも含む。軍務局に対して法務局や水路局や建築軍需局や医務局や記録局が併存する。
それぞれの要路に立つロシヤ士官達、特に軍務局のフォン・ニーデルメルレル大佐やドブロトボルスキー中佐に紹介されて、丁寧に挨拶した広瀬は、三万冊以上もある海軍文庫や、海軍参考館も本省の構内にあったけれど、それはいずれゆっくり見学に来るつもりで、背の高い八代の後について外に出た。
彼は9月28日落合試補と連れ立って、スペランスカヤ嬢というロシヤ語教師を訪ねた。
翌朝から十時半始業、一時間づつ熱心に学んだ。与えられた教科書は、四十六頁のごく薄いもの。中学生のように、ロシヤ文字のペンマンシップからはじまる。その間に綴りの切り方を学ぶ。
「ふくろう」 の絵の下にCobaと書いてある。ドゥデンの絵ときのシステムで、言葉と実体とを結びつけて覚えさせる。ところどころにCeπxのようにxに欠字があって、そのxにoを入れると正解になる。いつか文法の初歩が分った。第二巻まで進むと、品詞篇がくわしくなって、動詞の使い方がのみこめる。文章も複雑な構造を持ち、ところどころに韻文まで入ってくる。語彙はずいぶんゆたかになった。この巻は九十六頁で完結した。
スペランスカヤ嬢は、六十四才になるフランスの老人の家に住んでいる。老人にはフランス語と音楽を教える三十三才の娘と二十三才になる姪娘がいる。二十九才のスペランスカヤ嬢は、まるで姉妹のようにこのフランス婦人と仲良く暮らして、いつも離れたことがない。
日常会話は広瀬の身元をたずねることから始まった。おぼつかない言葉を操りながら、たどたどしく広瀬は答えた。
「オバアサンガイマス」
「ハイ、オリマス」
「八十一サイデス」
「オ父サンハオイクツデスカ?」
「六十二サイデス」
「オ兄サンハオイクツデスカ?」
「三十六才デデス」
「オ兄サンハオクサンヲオモチデスカ」
「ハイ、モッテオリマス」
「オ兄サンハオ子サンヲオモチデスカ」
「ハイ、一人モッテオリマス。女ノ子デス」
ほんとうに真面目で親身な教授ぶりだから、とても口から出放題なことは言えない。実地練習に夜間訪問せよというから、出かけると、一家揃って優遇してくれる。お茶を飲ませる。夕食を出してくれる。すっかり恐縮した。
こうしてだんだん親しくなると、さっぱりした広瀬は、スペランスカヤ嬢はじめみんなから 「いたって愛らしき人物」 と思われてきた。この大入道を、よりによって
「愛ラシキ」 というのは可笑しいことですがと、父に近況を報ずる時手紙に中で自ら笑っているけれど。・・・・・・
落合試補など日本人が他に三人ほどロシヤ語を学んでいたが、広瀬が一番新参だから早く上達するようにと特別に熱心に教えてくれる。時々ペテルブルグの町中を引き回して、ロシヤ事情と歴史と生活の知識を授けながら、会話の稽古をしてくれた。
日曜や祭日には公園やお寺に案内してくれる。ただマルコフ墓地のように墓地のお供には閉口した。
八代とは、気の合った同志だから、同じ部屋に居るとつい日本語で話し込んでしまう。 「これでは君のロシヤ語が上達しない。部屋だけは別にしよう」
と、八代が言うままに、同じアパートの最上階である六階に、四十号という一室を借りることにした。食事の時だけ三度、三度、八代の食堂に現れて、食後は談話に打ち興じる。
着いたばかりの九月下旬は、朝晩がもう寒かった。八代に聞くと、五月から六月中頃のあいだ、夜空だけは晴れ渡って、美しかったと言う。
ロシヤ語を勉強して何時の間にか午前三時まで起きていた。やればやるほど難しい国語である。
名詞と代名詞のかげが多い。じつにデリカだ。動詞のシステムは、いくらか知っている英語なんぞには見られないほど柔軟である。統辞論 (シンタックス)
は、原理としては簡単だが、西ヨーロッパ語一般のそれとはずいぶん違う。
文構造がかなり得て勝手であるにくわえて、なんとその語彙の豊富なことか。彼は必死になって毎夜遅くまで勉強した。
語学の勉強といえばなんでもないように聞えるけれど、三十近い髯男が、子供と同じようなことをやるのだから、容易なことではないと嘆息された。
九月三十日のメモに 「語学ノ困難ヲ覚ユ」 としるしてあるのが、いたいたしい。
八代は先輩らしくよく心を使ってくれる。過度に勉強してはいかん。衛生に注意して、ゆうゆうとやれ。人の価値は、その人の生涯の事業で決まる。目前の毀誉は浮雲のようなものだ。一時のことを気にかけるなよ。ゆるゆるやって大成を祈る、と励ましてくれた。
その頃の広瀬の生活は、起キル、喰フ、習フ、語ル、歩ク、寝ル、というロシヤ単語を毎日同じように繰り返して、ロシヤの空のように単調であった。只々語学の困難なのに閉口する。
その次に困るのは、やっぱり懐中の寂しさだった。ロシヤの物価の高いのにはあきれる。これは、ロシヤ政府が、国内の製品を保護する目的で、外国製品に重税を課すためらしい。
着任早々洋服を作らせたが、フランス、ドイツなどに比べると、六、七割も高いのに驚いた。出来上がって着てみると、ただ高値だけで、ひどく下手な仕立てである。ほんとに困った。
だんだん寒くなると、外套をつくらねばならぬ。 「シネーリ」 という毛皮外套は、時価五百円ぐらいと聞かされたから、今年は諦めて、来年まで我慢することにした。そのかわり
「シネーリ」 とまではゆかないが、かなり立派な毛皮外套一着を、本野書記から譲り受けた。普通外套は、八代先輩が八着も持っているから、そのうちの一着を借りてすませることにした。
八代のアパートは、飾り付けもだんだんと整備されて、日本の海軍武官としての体面の上でも、あまり恥ずかしくはなくなった。食事は、ロシヤの常として二食である。朝はただ茶を飲む。広瀬だけは、そのときもたらふくパンを詰め込んだ。留守居の媼が気を利かして、二日に一度は、必ず米の飯を添えるから、この上なしの満足だった。
楽しみは、やはり異郷で日本の料理を食べることである。十月にはベルリンの山形医学士に日本の味噌と醤油を頼んだところ、親切にも送り届けてくれた。早速味噌汁を作って、久しぶりで食卓に舌鼓を鳴らした。二人だけで味わうのは勿体無いからと言って、十一月末の一夜、親睦を兼ねて八代の食卓に本野など日本人都合九人を招いて祖国の味にひたる会食会を催した。なかにも薩摩汁は広瀬の手料理である。これが今宵の圧巻だと言って、主客一同喝采した。味噌はすり味噌の鑵入りである。欲を言えば豆腐が欲しい。食いしん坊の広瀬はそんなことまで空想した。
食べることにかけては、川上俊彦も負けてはいなかった。ことにみんなで一緒に食べるのが嬉しそうだった。ただ美味しいと言って褒めただけではいけない。美味しいものは余計に食べなければいけないという主義らしい。とても旺盛な食欲である。ご馳走になる相手が大いに食べるか大いに飲むかしないと気のすまぬ男である。八代や広瀬の好みもちゃんと気を付けていて、きわめて自然に相手を喜ばす。楽しい友であった。
その夜はよほど愉快になったと見えて、五月のニコライ二世誕生日の御宴のときの出来事を披露した。
あの時は、勲章を持っている者はみんな付けて行かなければならぬという御フレだった。ところがぼくは未だ勳七等の青色桐葉章しか持っていないんです。燕尾服にはどう見ても不似合いだし、とても貧弱だから付けて行かなかった。今のおやじとちがって西
(徳二郎) さんは意地が悪かったから、陛下から頂いた勲章を付けぬのはいかんと、無理に佩用させおった。
ところが御宴が終って談話室に入ろうとしたとき、ダニーロヴィッチ大将が、侍従武官長でしょう。
「ちょっとお待ちください。あなたの勲章は下の方が無い。どっかに落とされたのではないでしょうか。探してあげましょう。とんfだことをしましたね」。
と言うんです。
ロシヤの侍従武官長だ。桐の葉っぱの七等勲章なんて見たこともない。日本の勲章はみんな桐の葉の下に旭日や菊花が付いているものとばかり思い込んでいるから、僕のも下の方の旭日が付いていた勲章だったのを、あやまって落としてしまったと独り決めしたんですね。
向こうでは親切に一生懸命に探してくれるではないですか。さすがの僕も、私のは葉っぱだけのものです、と白状する勇気も無くなって、非常に困って、顔から火の出るような思いがしましたよという。
この失敗談には一同、腹を抱えて笑いこけたが、八代が君でも赤くなることがあるのかとまぜっかえしたので、笑いはいよぴよ高まった。
川上もひどく機嫌がよくなって、
「ムーシ・モイ・ナエズニック・ナエズニツァ・ヤー」 とロシヤの俗謡を、大きな声で音頭を取りながら、もういい加減酔っ払っていた一同に無理やり合唱させた。 |