広瀬と一緒に一日一日を送っていた常盤は、知らず知らずの内に、この海軍士官に心が傾いて、その存在が、自分の心の中に大きな部分を占めている事に気づいて、しばしばはっとなるのだった。
兄に似ているから、あの、自分を可愛がってくれた今は亡き兄にそっくりだから、親しみが湧くのかもしれない。そう言い訳して自分の気持ちを納得させてみる。
沢山お客様がお泊りにはなるけれど、女の私をこれほどまで大切にして心からお話して下さるお方はいない。広瀬様は私が今までにお目にかかったことのないような頼もしい男らしいお方です。それでいて優しく、慈愛に富んで純潔なお方です。私は心から尊敬せずにはいられない。
微妙に揺れる常盤の心には一日一日と、広瀬の像が深く刻み込まれていった。
そうなると、自分の知らない、このお方の過去の事柄をみんな知り尽くしたい、このお方の生きてきた心の中のことをみんな聞きたい。そう思う心がしきりに動いた。
その過去を知り尽くさぬうちは、この方の存在は自分より遠くにあるのだという気持ちさえして、ペテルブルグの生活を語る広瀬に、常盤は色々と細かく問い尋ねた。
彼の語る思い出話のうちに、ヨーロッパ・ロシヤでの彼の生活を常盤はあれこれと思い描いた。
広瀬は話の途中に立ち上がって自室から柳行李を運んできた。ペテルブルグを立ち去る日、ロシヤの友人達が贈ってくれた記念品だと説明しながら、テーブルの上に一つ一つ、彼はその贈物を取り出して見せた。
ロシヤの七宝焼きが多い。オヴチンニコフの有名な焼薬でピョートル大帝の肖像を焼き出した匙もある。
裏には1902と年号が刻まれてロシヤ人家族の名がずらりと彫りだされている。
この家の子はいつも廊下づたいに遊びに来ました、と懐かしそうである。
きらりと光を受けて輝く銀製のさじ。みんな美しい花で縁取りをした高雅で上品なものばかりである。
贈り主の階級とゆかしい人柄を偲ばせるものばかりである。裏を返せば、やはり常盤には知らぬ家族の人々の名前が並んでいる。でもこのお方をお世話くだすった人々かと思うと、何か親しささえ感じられた。
そうした記念品にまつわる思い出を語る広瀬の心には、たえずアリアズナやマリヤの面影が浮んでいた。
「奥さん、この中から記念にお好きなものをお取り下さい、どうせ私には不用のものですから。」
そいう広瀬の言葉を、常盤はさえぎった。
「とんでもありません。そんなことなすったら、頂いた方に申し訳が御座いませんよ。数年経ってからならいいかも知れませんけど、今はいけません。」
優しく諭すようにいう常盤の言葉に、広瀬はトーキョーの兄嫁に似た俤を見た。
「なぜいけないのです。自分が貰ったものを人にやるのですから、いいではありませんか。」
そういう広瀬にはエチケットを姉にたずねる弟のような口調があった。
柳行李から一つのペンダントを取り出して、
「 私が買ってきたものだからいいでしょう。これを記念にさし上げます」 と彼は言った。
それは小さな銀の美しい帆船である。ロシヤ文字で 「セヴァストーポリ」 と銘されている。
1899年夏のクリミヤの旅を思い出させるものである。そのときは自分もまだ処女であったと、常盤はその好意を嬉しく受けた。
夕方公務を終えた夫が戻ってくると、常盤は、その日どういうふうに過ごしたか、とくに広瀬をどうもてなしたかを毎日報告するのが常だった。
その日、彼女は広瀬から貰った銀の帆船のペンダントを夫に見せ、他の方は女の私を相手にしないのに、広瀬さんだけはとても親切に私をよく面倒みてくださると嬉しそうに伝えた。
夫は笑って、
「広瀬は、とても礼儀に篤い人なのだ。俺の世話になっていると恩を感じているから、お前に対してもふつうの奥様に対するよりはよくして下さるのだ。広瀬がお前を好きだなどと思ってはいけないよ。あれは誰にでも親切だし、何でも知っていて、それを黙っているんだ。」
と、若い妻の気持ちを汲んで、それとなく注意を与え、常盤が、
「大丈夫。私はお利口だから、よくわかっているのよ」 と答えると、
「それ、それ、そこがお前の馬鹿な所なのだ。」
と、世故なれた夫は微笑しながら、常盤をまるで小娘のようにからかった。
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