『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第二十二章 ・ 日 本 の 騎 士 ==

ある日の午后、広瀬は常盤と連れ立って市内に出た。ウラジヴォストーク目抜きの通りを東に抜けてウスペンスキー教会、プロテスタント寺院を通り抜け、ドッグの並ぶ一画劃にはいってフボッカと呼ばれる町外れまで出た。そこは海軍兵舎のたち並ぶ所である。見渡せば金角湾は、氷に閉ざされ、ただ白々と目の前に続いている。
この世ならぬ風景に思わず恍惚として見上げると、大空は青々と晴れわたり、天上と地上とは、互いに呼び交わし、不思議な美しさを映発させている。
遠く沖合いを望めば、人間の手になる最も厳かなもの、軍艦が数隻粛然として横たわっていた。 なんと見事な世界だろう。崇高の極みである。
常盤の心はすっかりこの世界に溶け込み、不思議に甘美な感動が身体をかすかに震わせた。思わず彼女は傍らに立つ広瀬の横顔を見上げた。
その気配を感じてか、広瀬は、軍艦の群を近い方からひとつひとつ、あれは 「ロシヤ」 、あれは 「リューリック」 、あれは 「セヴァストーポリ」 といちいち指して、常盤にその名を教えてくれた。
「みんな新しく出来た大艦で、なかなか立派な艦ばかりですが、いずれ日本の艦隊に打ち破られる日が来るでしょう。ご覧なさい!。あの 「ペトロパウロフスク」 が旗艦です。あれなどは一番先に沈められるかな。」
常盤の目には、去年の夏訪れた、あの戦艦の艦長室が見え、善美をこらした長官私室が見え、そのなかにグレーヴェ大佐や、ミルング中尉の顔が明滅した。
あの時の懐かしい印象に冷水をぶちかけるような、この激しい言葉を聞いても、少しも忌まわしい気持ちにならない。かえってあの一隻一隻を海の藻屑にさせてしまうと意気込み、いずれはそうなるに違いないと預言者めいた言葉をはく、この日本海軍士官に頼もしささえ感じる心の動きを、自分ながら不思議に思った。
「今年の夏には常備艦隊の 「朝日」 に乗って、この港に来たいものですね。一万五千四百トンの大戦艦を見たら、ロシヤっ坊は、さだめし驚くでしょう。」
という彼の声は、両軍の装備を知りぬいた専門家が持つ自信に溢れていた。
頼もしい人と思うにつけて、おごそかな海の景色が、いつにも増して、今日はことに美しかった。
この瞬間がいつまでも続けばよいと常盤は願った。
広瀬もしばらく黙って海を眺めていたが、ふと気がついて、
「だんだん寒くなりました。いつまでも海風に吹かれて立っているのは、ご夫人の身体に良くないでしょう。」
そう促して歩き出した。
海沿いの道が切れて、市内に入る小路に折れた時、酔っぱらったロシヤ水兵が幾人か、千鳥足で歌いつ、舞いつ、騒がしくやって来た。女と見てわざとよろめいて、常盤の方をめがけて進んだ。
その時右側を歩いていた広瀬は、早くも左側に常盤を守るようにしてすくっと立ちはだかり、ロシヤ兵をきっと睨みつけた。
堂々たる風采の将校である。鋭い目をして気迫は全身に溢れている。その威厳に押され、生酔いの水兵たちはみんなコソコソと通り過ぎてしまった。
常盤はほっと胸をなで下ろすと共に、ひと目がなければ、この頼もしい人の胸にもたれかかりたいようなときめきさえ感じた。

またある日の午后のこと、二人で山の手の狭い通りを一緒に散歩していた。突然、一頭のはなれ馬が、白泡をはきだし、声高くいななきながら、荒れに荒れて駆けて来た。道幅といったらほんとに狭い。
逃げられぬ。ああどうしよう。こわい!。
と思って目をつぶったその一刹那、常盤の身体はもう広瀬の胸に抱かれて、あっという間に道ばたの籬の下に置かれていた。
駆け抜ける馬の蹄の音、立ち上る砂煙。閉じた目の中に火の玉のようなものが、グルグルとめぐる。
そっと見開く目の前に誰かが立っている。白い翼が生えているようだ。天使だろうか?。キリスト教徒を守る守護の天子の横顔が、揺れながら、動きながら、彼女の心の目に写った。
ほっと安心すると、幻は消えた。そこには仁王立ちに立ちはだかった広瀬少佐が、わが前に立ちふさがって、大手を広げ、馬でも鬼でも寄らばひしがんず勢いで、常盤をかばってすくっと立っていたのであった。
なんという頼もしいお方だろう。ヘンに騒がず、驚かず、行動は実に素早い。身をもって人を助けようと言う義侠心に満ちている。
感謝と感激と賛嘆の情で胸をいっぱいにふくらませた常盤の目には、この人が、どうしても人間とは思われぬ。さっきのヴィジョンが、もう一度現れてきた。
このお方はほんとうに天使なのかも知れない。私を守護する天使なのかも知れない。お髯を生やして頼もしい力のある天使、あるいは武骨天使と言うのかも知れないと、彼女は密かに心の中で思いつづけた。
その夜、彼女は百万の兵に守られるよりもっと心強い頼もしさを覚えて、どんな女王もかって味わった事もないような高らかな女の誇りの中に安らかな眠りにおちた。

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