事務官の用務は、ずい分多い。ふつうなら出勤前、退庁後は、うちくつろいで語れるのに、この頃は丁度公用が重なり合って、折角来てくれた遠来に客にも思うようなもてなしが出来ぬ。せめて再会の記念に写真でも撮っておこうと、広瀬にすすめて、ペキンスカヤ通りの日本写真館で記念撮影をした。
玄関を思わせる石の置物を道具立てにして、向かって右にモーニング姿の川上がシガレットを手にしてゆるやかにくつろぎなから腰をおろした。真中には常盤が、そのころ流行の濃いビロードの冬の衣裳に、同じ色のかぶりものをして、石の台の上に左手をもたせて立った。広瀬は向かって左に、金筋三本の海軍少佐の通常礼装で、自然石に腰を掛け、右脚を伸ばし、差脚を曲げて、やや高めの川上とコントラストに下位について、左手は胸に当て、右手は膝の上に置く姿勢をとった。
例の剣は、思い切って前にまわして、はっきり光線を浴びるような形にさせた。その結果あらわれたのは1902年代の在外日本武官と日本インテリ夫人との典型的な肖像群である。
ここに写った広瀬の容姿は、颯爽として人を打つが、同時に広瀬は前に書いた氷上旅行の姿のままで、単身像を二枚写させた。
長靴を重ねて、シネーリと外套をはおり、耐寒の毛皮帽をかぶった軍装の写真である。
あの時の気持ちがもう一度写真に表れて、しの出来栄えは素晴らしい。
ことに凛と張った目が美しい。それは、海との闘いに勝った男の目である。氷の原との闘いに勝った男の目である。
そうして心に誓った誓いを貫き通して、われにうち勝った男の目である。われにうち勝ったからこそ、悲しみを知っている男の目である。
その撮影をそばに立って見ていた常盤は、ふとこの男の目をうかがって、わけもなくその深みに引き込まれた、伝説にあるというメールストロームにのみ込まれたような気持ちになって・・・・・
この写真ができてきた時、広瀬はペンをとって、その裏に、力のこもった太い字体で
「凍風朔雪ノ間二千有余露里、黒竜江ノ氷上ヲ踏破セシ橇車旅行ノ記念トシテ川上俊彦大兄ノ玉机下ニ呈ス
辱交 広瀬武夫 明治三十五年三月九日」 |
と、一気に書いて、この年長の友に贈った。
公用が多く外出がちだから、うっかりするとおろそかになるかもしれん。おもてなしの役目は、お前引き受けてくれと、夫に言われて常盤は、嬉しく困った。
ウラジヴォストークの冬のことだから、別に遊楽の場所もない。都帰りのお方に田舎芝居のご興味もあるまいから、むしろあの方には日本食のご馳走をしておもてなしをするのがよかろうかと思いついて、昼は必ず自ら指図して日本の料理を作らせた。
広瀬は大変気に入ったと見えて、サシミでも、吸物でも、魚の料理でも、どんなものを作って出しても、しんから楽しそうに、心よく味わってみんな食べてくれる。味わうだけではない、量の上でも健啖家としてウラジヴォストークにその名の轟き渡った川上をさえ驚かすほどの腕前である。
ごちそうも、これならしてさし上げた甲斐があると、常盤は、楽しそうに食べている広瀬の横顔を見ながら微笑した。
食事の間に、日本の話、ロシヤの話、常盤がまだ見ぬヨーロッパの話、海上生活の話、雪の中のペテルブルグの話、九州の故郷の話、兄の家庭の話、・・・・それからそれへと続いて、興は尽きない。
広瀬の男らしい風采と、その話を通じてうかがわれる温かい心根に、常盤は初めから引きつけられるような気持ちであった。
一緒に居ると、いつの間にか広瀬の朗らかな人柄に染まって、まるで春風があたりを吹き渡ったのかと思うほど何とも言えず明るい気持ちになって、彼女は急に陽気になった。
物心ついてから、こんな楽しい心持になったことはない。静かに語る広瀬の言葉遣いは折り目正しく、床しき人柄を思わせた。
多くの客人を扱いなれた常盤には、すぐにそれが感じられた。特に夫に対する時は、目上の者や上官にものを言うように丁寧である。数日経っても、それはくずれない。ある日常盤は、
「お友達ですもの、気安くお話なすってくださいな。そんなに丁寧になさらずともよいのですよ。」
といって、固苦しさを取り除いて、広瀬の気持ちをほぐそうとした。
広瀬は答えた。
「いや奥さん、友達にも色々あります。同じ仲間と言う程度の友達も居れば、目上で尊敬している友達もあります。それから、色々とお世話になり御恩を受けた友達も居ましょう。川上さんには特にお世話になったのですから、私の言葉遣いは当然なのです。」
その答えを聞いた常盤は、親しい仲にも礼儀ありとの古い諺どおり、友人への礼節を重んずるこの武人の心掛けに感服した。 |