『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第二十二章 ・ 日 本 の 騎 士 ==

ある夜、チュフニン少将の官邸に、舞踏会が催された。川上夫妻も招待されえた。今日を晴れと着飾った数十名の婦人が、百人以上の男に混じって花に狂う胡蝶さながら、軽い裳裾をひるがえして、舞い踊りつしていた。
常盤は、一人のロシヤ老紳士のそばに座を占めて、それをじっと見ていた。その時、知り合いの一人の士官がつと寄って来て、ロシヤ語でその老紳士に話しかけたが、やがて常盤に向かって、私の乗っております 「ペトロパウロフスク」 艦長グレーヴェ大佐をご紹介申しあげます。と丁寧なフランス語で話しかけた。
老紳士が口を開いた。
「お目にかかって、誠に嬉しく存じます。あなたがまだお生まれにならぬ頃から、私は日本に住んでいたことがあります。」
と、流暢な日本語で話し出した。ただ単語だけが日本語だと言うのではない、語る調子といい、アクセントといい、日本人そのままである。思わず嬉しく一時間ぐらい二人はあれやこれやと話しつづけた。大佐は、これが縁になって時々貿易事務館に姿を現した。

その秋、 「ペトロパウロフスク」 にご招待したいという手紙を持って、男爵ミルング中尉がわざわざボートで迎えに来た。この大戦闘艦はこのとき修繕中で、ドックに入っていた。雨のような霧の中にグレーヴェ大佐は、二、三の若い将校を従えて、わざわざ出迎えていた。導かれるままに、階段を上り、幾室かを通り抜けて、艦長室に案内された。部屋はあまり広くはない。でも、友人の写真や各国を歩いた時にもとめたという様々な置物や珍しい器物で美しく飾られている。中には、日本の巧みな刺繍も見られた。
艦長とミルング男爵とは、先に立って、この一万余トンの大艦の中を残らず見せてくれた。じつにガッシリとした大戦艦だった。
艦内見物を終わると、お茶を差し上げますから、どうぞこちらへとまた日本語で言われるので、後について行くと、そこは、五十畳敷ぐらいの大きな円筒形の部屋である。 「司令官食堂」 と書いてあった。カベは全部純白、一点の塵もとどめない。部屋の真ん中のテーブルの上には珍しい果物や菓子が数多く並べられている。
川上夫妻のお相伴に招かれていた将校は七名で、英語か、仏語か。あるいは少しばかりの日本語か、どれかを操れる人々ばかりである。しかし勿論艦長の日本語には及びもつかぬ。
グレーヴェ大佐の日本事情に精通していることは驚くばかりであった。茶菓子を取りながら、大佐は、こんな笑い話もした。
「私は、日本料理が好きです。一番はウナギ、二番はスキヤキですね。いつでしたか、ナガサキに艦がとまっていた時、一人の士官を連れて、ウナギ屋へ行きました。
あくる朝、なにげなしに、新聞を見ると、驚くではありませんか。その前の日に私がウナギ屋に行っていたことが出ているのですよ。日本では、どんなことでもすぐ新聞に出されます。」
そう言って大佐はカラカラと笑った。
茶菓子の接待が終って立ち上がったとき、常盤は、室内を見渡した。片側には高貴な織物の幕が両方に絞り上げられて、入り口を半ば覆っている豪華な素晴らしい部屋があった。そこは艦長私室で、こんどロシヤ東洋艦隊司令長官エゴリ・スクリュードルフ中将が、四、五日うちにこの部屋に入るのですと、艦長が説明してくれた。なんということなく深い印象を受けた部屋だった。

十一月からペチュカをたいて、暖かいけれども空気の流通のよくない室内の生活が続く。
1901年の冬が来た。常盤は意外に重い病にかかった。エゲルマン夫人は、ふだん大事にしているヒナ鳥を毎日一羽づつつぶして、心のこもったスープをこしらえて持って来てくれた。
ポスネフ夫人とは、いよいよ親しくなって、月曜ごとに五時からの招きには、欠かさず赴く。いつも同じ笑顔で迎え、同じ笑顔で送ってくれるのが嬉しい。
こういう心の暖かい少数のロシヤ夫人たちを除いては、語り合える女の友達がいない。
ウラジヴォストークには日本人が三千人もいるというが、そのうち二千人は、天草から来た売笑婦だ。船が着くごとに、十人以上はそういう女たちが乗っている。一度は国に送り返されても、性懲りもなく彼女たちはまややって来る。ロシヤ政府の方でも、人口の希薄なシベリヤを開拓させるには、女がいないと困る。ロシヤ人やシナ人の売笑婦は、こんな辺ぴな所まではやって来ない。いきおい日本の女を先頭に小さなロシヤ村が開かれ、いくらか盛んになると、更に次の村が開かれ、どこでも役に立つから、ロシヤ政府も、日本の売笑婦にだけは課税しない。コサック兵より日本女の方が、シベリヤ開拓の先がけだという笑い話さえ、当時一般化していたくらいである。

ウラジヴォストークで、公園を散歩していると、時々立派な馬車に乗った日本女に出会う。挨拶すると、向こうが迷惑そうな顔をする。後で聞いてみると、それがいかがわしい女なのであった。そのころの女性としては高い知育を授けられて、アメリカのピューリタニズムの洗礼を受け、矯風会の会頭に可愛がられるほど潔癖なモラルの持ち主川上常盤にとっては、なんとも言えず不快な現象だった。夫は事務官のの職務柄、そういう人の世話もしなければならない。彼女は、日本在留民のことを考えると、憂鬱であった。

それでは話ができる日本人の男性が居るかというに、日本人クラブもある、居留民団もある。けれど日本のインテリは殆ど居ない。職業と言えば、せいぜい時計屋とか写真屋とか、手先の技術を必要とするものとか、洗濯屋のように清潔でなければ不評をかう職業に従っている人たちなら、まだいい方である。あとは、ペンキ屋とか、さもなければ、石工や大工などが主だ。
商人も資本が弱いから、これといってしかるべき店を張っているのは、指折り数える位。それに日本で食い詰めて、外国で一旗挙げようという浮浪人同様の者が多い。たいていは、いかがわしい商売を影でこっそりやらねば立ち行かぬような人々ばかりだ。
それらの日本人を世話するのが貿易事務館の仕事だから、夫の公務の忙しい事は、見ていても気の毒なぐらいであった。
初めは、ものめずらしいのと、生活が変わっているので、いくらか気が紛れたが、時がたつにつて、土地の真相、人間の気風が明らかになってくると、常盤は、いつも明るい気持ちばかりはなれなかった。
彼女は時々一人になって、いつまでも黙っている時が多くなった。

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