『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第二十二章 ・ 日 本 の 騎 士 ==

そのころ、ウラジヴォストークの日本貿易事務館では、事務官川上俊彦夫妻が、毎日指折り数えて広瀬の来るのを待っていた。
川上は妻の常盤に、広瀬の人柄をくわしく伝えていたのである。
「おれの親友の海軍少佐だよ。ペテルブルグから日本へ帰る途中に寄るのだ。柔術の名人でなあ、頼もしい奴だが、心はいたって優しい男さ。」
というところまでは真顔だったが、急に調子を変えて、
「酒は飲まず、煙草は吸わず、品行はいたって方正ときているから、お前には好かれそうな人物だ。」
と言った。
その時は妻の目をのぞき込んで、いたずらっぽく微笑しながら、一語一語に力を入れていたが、最後に心をこめて、
「来たらよく世話してやるがいいよ」 と注意した。
常盤は早速、夫が公使館通訳時代の写真を取り出した。
「真ん中に居るヒゲのオヤジが林さん。それから奥さん。向かってその右のシャレ者が本野さんだ。今はベルギーの公使になっている。フランス語が上手いというけれど、なにしろフランス人のコレ仕込みだからね。」
と言って、右手の小指をちょっと動かしてみせた。若い妻は、かすかに笑って、
「そのお隣のお立派なお方はどなた?。」 とたずねる。
「八代少佐だ。どんどん進級して、今は中佐、じゃなかった、去年の十月かなあ、大佐になったと言う辞令が官報に出ていた。あびるような飲ん兵衛だが、じつに気風のいい人だよ。
「わかったわ。広瀬少佐はこのお方でしょう?。」
と指差したのが、まさしく二人が噂の主人公であった。
この時、川上は四十才、妻の常盤は二十六才をちょっと出たばかりであった。結婚してまだ一年そこそこだったし、ご多分に漏れず、ごく仲のよい夫婦であった。不満などあろう筈はない。ただ年が違いすぎるので、時々子ども扱いにされるのが、勝気な彼女にとって少し口惜しいだけだった。
公私とりどりの用で貿易事務館に泊まる日本の客人はかなり多い。主人の親友なら、おろそかに出来ないと考えるのだが、写真で見たその人物の風采は、今までになく何か異様に訴えて、早くお会いしてみたいと促す力を持っていた。常盤はいつまでもその人の写真を見ていた。
亡くなった兄の懐かしさをふとおもいだしながら。

明治維新の時、会津藩は薩長軍に抵抗したため、そこの藩士はそれから長いことみな苦労のしづめであった。しかし困難辛苦を経たために持ち前の本性が研かれて見事な華が開いた事は、 「佳人の奇遇」 の作者、 「小公子」 の訳者の生い立ちなど見ればわかるだろう。
木本成三というサムライの次女、常盤についても同じことがいえる。
常盤は、1875年、一家挙げて移住していた函館で生まれた。遣愛女学校というメソジスト系のミッション・スクールで英語の学力とキリスト教の信仰をしたたか叩き込まれた。家庭の躾はよいし、頭はよいし、女宣教師のミス・デカソンには、ことに可愛がられた。
彼女はそこを出てから、トウキョウ麹町の女子学院の寄宿舎に移って、校長矢島相子にみとめられ、その薫陶を受けた。
この経路でわかるように、アメリカのピューリタニズムが、彼女の魂の中心を作ったのである。少しも偽善的でない、ごく純粋なクリスチャンの精神が、彼女の道徳的背骨を形づくっていた。
1900年秋、川上俊彦の妻に迎えたいと言う縁談がまとまった。川上は、長く務めていたペテルブルグの日本公使館から、ウラジヴォストーク勤務の貿易事務官に栄転して、日本に帰って来ていた。函館に居る木本の両親に、異存のあろう筈はない。常盤の仕度は、そのころこの娘の家庭教師をしていた加藤夫人菊枝がほとんど一手に引き受け、親身になって調度さえ揃えてくれた。十一月末 「星ケ岡茶寮」 において、式はめでたく挙げられた、函館まで新婚旅行をしてから、すぐ任地に赴いた。

十二月二十七日、ウラジヴォストークが見えたという声が船中に流れた。初めての外国を早く見たい、と心せかれるまま、常盤は、急いで上甲板に出た。
よく晴れた空である。雲一つ見えない。その空と水のあわいに山々が連なり、ゆるい斜面には様々な建物が並び立って美しかった。
家々は白い壁が赤い瓦とコントラストして、なかなか立派だ。船は速力を落としたが、湾内いたるところに大小幾万の氷の群れが流れつ鎖しつしているので、思うように進めない。
市街は、呼べば答える目の前にありながら、錨を下ろす事も出来ず、昼過ぎ、やっと碇泊地にたどり着いた。
そこは見渡す限り結氷している。ハシゴはすぐに氷の上に降ろされた。その氷海を渡って旅人が上陸する。耳のつき出た毛深い帽子をかぶった化物が、幾人となく船のまわしに集まってガヤガヤ騒ぎながら、船から降ろす荷物を運搬している。聞けば 「マンサ」 という、シナ人夫だそうである。
常盤は、出迎えの人に付き添われて、ハシゴを降りようとすると、すぐ下に一人のマンザが立って、手荷物があるなら運ばしてくれと叫びながら、うるさくつきまわる。ニ三歩離れて見ていたロシヤ警官は、いきなりこのマンザを殴り倒した。氷の上にのけざまに倒れたのを、またもや靴でしたたか蹴飛ばした。
いまロシヤに第一歩を踏み入れた日本の若い夫人は、この光景を見て驚いてしまった。ここではロシヤ人とシナ人とが主人と下僕の関係だとしても、その下僕をまるで人間扱いせぬほど乱暴なのには驚きもしたし、怖くもなった。

お迎えの馬車が待たせてありますから、お召し下さい、と出迎えの人々が促す。見ると二頭立ての幌馬車が待っている。汚い。汚い。馬の毛には少しも光沢がない。馬丁は、赤い木綿の袖なしを着た薄汚いロシヤ人の大男である。
道路は鋪道が出来ずデコボコとみえて、そのひびくこと、その揺れること。思わず夫の手にすがりついた。
揺られながら賑やかな大通りを見送って五、六丁行くと、ゆるやかな坂がつづいて、その角に立っている菊の紋章をつけた大きな木造の邸が貿易事務館だった。
1886年以来シベリヤに暮らす何千という日本人の保護を一手に引き受けているお役所である。当然、日本領事館というべく、事務官は、領事の実権を持っているが、ロシヤ側がその名目を喜ばないので、こういう変則な名前をつけていたのである。

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