『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第二十一章・ シ ベ リ ヤ の 雪 と 氷 ==

一面に塗りつぶされた夕闇が動く。わが心が動く。
たちまち広瀬の目の前には、大風の中に大波を受けて沈まんばかりに激しく揺れながら進んで行く軍艦の幻が浮ぶ。あの夕暮れは、空一面茶色に濁って、水鳥も艦の中にバタバタ落ちて来た。
十時ごろ今見るような真黒な雲が風上の空に出たが、たちまちものすごい大風に変わった。波が高い。艦が揺れる。足がよろめく。言葉も風にあおられ、耳に届かぬ。ただ、艦長の叫び声だけが、時々号笛の中にとぎれとぎれに伝わってくる。

彼は揺れ動く橇がそのまま 「比叡」 の艦橋に変わってきたことを感じた。
「総員上へ!」 という叫び声が聞える。
帽子をわしづかみにつかんで、彼は梯を駆け登った。釣床から飛び下りた時、寝巻きは脱ぎ捨てた。シャツ一枚とパンツだけで、上甲板に躍り出た。帆は充分たたみ終えていないので、強風にあおられてバタバタ唸るのがものすごい。
ただ西に進路を取って、遮二無二山のような大波を蹴破って進む。蒸気をたいたので、プロペラは、水を出ると急にガラガラとわめいて、うっかりすると機関が壊れるのではないかとさえ思う。
不気味な稲光が夜通し光っていた。誰一人眠る者はいなかった。夜は白々と明けてきたが、艦はまったく水煙の中にいる。
ボートがさらわれた、ヤードが傾いた。帆片が吹っ飛んだ。波はますます高くなる。あっという間に、右舷の手摺が、メキメキメキとうめいて、壊れかけた。
「このまま放っておけば沈むぞ。誰か登って帆をくくる奴はいないか。」
という航海長の叫び声と一緒に、彼はもう帆柱に登っていた。吹き飛ばされそうな激しさだ。今と同じに手がしびれる。指が感覚を失う。とにかくメーントプルスをくくった。そのトプルスの帆ぎれが、左舷の海中にぶら下がってバタバタし、艦の進行に邪魔になる。舷外に突き出たシートエンマルに命綱で身体を縛ってもらって、四爪錨を使ってどうやら引き上げたが、山のような波に艦は激しく揺れて、アッという間に広瀬は顔を海中に突っ込んだ。二度突っ込んで、やっと引き上げた。あの時の塩水の感覚が、いまも口の中にジャリジャリする。
大雨大風の中に外套もつけず、雨着もつけず、寒さにおののきながら当直を終わり、ヘトヘトになって中甲板に降りてきたら、ブドウ酒を持って来て、誰だっけ、無理に俺の口に流し込んだ奴がいた。ガブガブあおったと思うと、急に身体が熱くなって、疲れが酔いと一緒に出た。そのまま士官次室に死んだようにぶっ倒れた・・・・・・

十年前のあの夜の光景が一度浮んでくるといつまでも続いて、思い出を限りなく誘う。
忘れていた身体の弱りは、酔いが薄れるにつれてまた感じられる。自らを支えようとするかのように、広瀬は腰の長剣を前にしっかりとついて、それに身をもたせた。
そのころの海軍士官は、みな競って短い剣を帯びていた。その方が腰によくついて、シックなのだ。広瀬のは違う。それは菊池の千本槍といって、槍の刀身を仕込んだ自慢の業物である。無反の片刃で、幅が狭く肉が厚い。短剣とはいえぬようなその鮫革の長剣を頼りとするように、しっかりと握って、
「倚剣之気雄
   持剣之気凛
      拝剣之気恭」

けん るの ゆう なり
  けんもつ りん たり
    けんはい するのうやうや
と、彼は自作の 「愛剣銘」 を低く口ずさみながら、われ自らを奮い立たすように、いつの間にか大声をあげて
「君不見日本海軍真男児
    困難経来胆倍大
     狂?怒涛来乃来
         世間何物果能挫」

きみ ずや日本にっぽん 海軍かいぐん しん だん
    困難こんなんきた りてたん ますます だい なるを
     狂?きょうひょう とう きた らばすなわち きた
          けん 何物なにものはた してくじ く」
と朗々と吟誦した。
あの難航海の時に作った古詩の最後の句である。
聞きなれない言葉に驚いて、馬丁がふり向いたよき、客はカッと目をむいて、何一つ見えない大空を仰いでいた。

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