夕暮れの嵐は止んだ。吹雪きもおさまった。物音一つ聞えない真冬の極北の空に星が一つきらめいた。救われたような気持ちになって走りゆく橇のうえから眸をこらして、そのまたたきを見つめていた。
と、
「どうしてお帰りになりますの?、わたくしはいつでも貴方のおそばにおりますのに・・・・・」
という静かなささやきが聞えてきた。
忘れることの出来ないアリアズナの澄んだ声ではないか。
イルクーツクから出した最後の手紙が、もう届いたのだろうか・・・・・・・
楽しかったペテルブルグの日々の想い出が、走馬灯のようにめぐる。今さら考えることはない。もうはっきりと心に誓ったことではないか。
自分を今祖国は呼んでいる。日本に帰らねばならない身なのだ。
だがあの人が永遠に懐かしい人であることに変わりはない。
橇は今刻々とあの人との距離を引き離してゆく・・・・・・
急に我慢できなくなった。戻ろう。あの星のきらめく方へ馬を向けさせよろ、と危うく叫びだしそうになっている自分自身を見出して、広瀬は愕然とした。
その気配を察したかのように馬丁が叫んだ。
「旦那、街の灯が見えてきましたぜ。」
三頭の馬に引かれた橇は、威勢よくハバロフスクの坂の多い町に入った。アムール河の右岸の高台に築かれた大きな町である。 住民が一万五千人もいるという。
明るい灯影に照らされたムラヴィヨーフ・アムールスカヤ通りで時計を見ると午後八時だった。すぐロンドン・ホテルに着けてもらった。
なにはともあれ、病める身を労わらねばならぬ。彼は久し振りで真白いシーツを敷いた寝台の上に身を横たえた。
ベットに入っても、いまだに身体が揺れているような気がする。橇に揺られて、ウトウトしたまま幾夜送ったのか。
ブラゴヴィチェンクスを出た時から数えて、四昼夜八時間。スレチェンクスから数えると2068ヴェルストの長里程の氷上を風に吹かれ、雪にたたかれて、昼夜兼行で来た。計算すると、一昼夜平均50里以上の速度で走らせたことになる。シベリヤの冬の旅に慣れたロシヤ人でも、この話を聞いてはみんな驚いた。試みに日本の地図を開けてみよ。北は北海道から南は九州まで、その間はせいぜい300里にしかならない。広瀬の橇車旅行は、その日本の全長の二倍近くの行程であった。しかもその間、人の多く経験せぬ、その地方の極寒の厳しさを、わが一身をもって試してみようという雄心に貫かれていたのである。
われながらよくやってのけた。十昼夜半の苦労も無駄ではなかった。シベリヤの冬のあり方、特に輸送力の問題も、これで生きた記録を報告することができると、わが本務を果たした歓びに、広瀬は手足を思い切りのばして眠った。
この宿には、数日滞在して旅の疲れを休めた。下痢もすっかり治った。何日も湯浴みしていなかったので身体が臭い。無精髭も顔じゅうを覆っていた。いつの間にかロシヤ人と見間違えられるような姿になっていた。
ハバロフスク総督府を訪問したり、在留邦人に会ったりした。ブラコヴィエチェンクスが穏やかな感じだったのに比べると、ここは、もっと堂々とした官吏と軍人の町だ。広い平野に、今は凍っているが大きな河が一筋流れて、東北をさす。みはるかす山は、それほど高くない。奇抜な風景も見られない。そのまったいらな風景の中に、沢山の官吏や軍人が、酒をあふり、暇つぶしにただバクチを打っていた。日本人もかなり居るが、みんな低い階層の人々で、それを見るロシヤ人の目は異常に冷たい。
日英同盟が結ばれた。ロシヤ人を敵とする軍事同盟が発表された。二月十一日附で公表されたという飛報は、この町にも伝えられて、ロシヤ人はみな不快な気持ちを持っているのであった。
これでヨメめた、ミハイーロボ・セメノフスカヤの事件の意味が。外交のことは色々複雑だが、伊藤公爵がみえた年末でも、おれがペテルブルグを発つ一月の中頃でも、ロシヤ人の対日感情は、あんなに温かだった。その気持ちにウソはなかった。それが急に変わったのだ。もっともロンドンにいる林公使は、前からロシヤが嫌いで、イギリスと握手する方が得策だよいって居たが、日本の政治界の有力者は、伊藤だって山県だって、ロシヤの力を恐れて弱腰だった。
イギリスと同盟するということは、ロシヤを敵とし、いざとなれば武力に訴えるだけの決意を日本の首脳部が、とうとう覚悟したという意味になる。
かねて予想しなかったわけではないが、時も時、所も所でとんでもない知らせを聞くものだと広瀬は思わずドキンとした。
俺は今まで何の為に生きてきたのか。少年の時志を立てて海軍に入った。はるばるロシヤまで派遣されて、五年の月日を一日のように、ただただロシヤ事情を研究するのに努力した。何もかも今に来たらんとする戦場で軍人らしい死場所を持とうとする為ではなかったか。その覚悟はもとより微動だにせぬ。日英同盟が公表された事は、その死場所に向かう一歩をさらに進めたことになるだけだ。
いよいよそうと決まれば、いつなんどき死んでも後に迷惑は掛けまいと深く覚悟した。
それにしても、なにか約束を果たせなかったり、思い残す事でもあろうかと、あらためて反省してみたが、別段そんな心残りは何もあろう筈はなかった。
何もない筈である。ただあの人の声だけが、いつまでもつきまつわってくる。それは彼の力でどうにもしようがなかった。
「いつまでもおそばにいますのに・・・・・」
というあの人のささやきがまた聞える。
声は聞えるが、今あの人はそばに居ない。
生命がけで慕ったあの人を、たしかい自分は愛していた。だが国と国との関係がこうなると、いよいよ一緒になる可能性は薄れて来た。
これが運命というものか。世間並みに捨てたのではない。捨てられたのでもない。そんなただの関係ではなかった。
でも考え直すと、かえってよかったのかも知れぬ。なまじ未練は残らないから。
おれたちの仲は続いていて、切れてる。切れていて続いている。
広瀬は誰にも見せずにポケットの奥深く秘めていた手紙をそっと取り出した。
それは、その人の一途な思いのたけを初めて打ち明けてくれた時の玉章である。
封筒にも、手紙にも、その人の呼吸が懐かしく匂う。
あなたの心臓の上にいつまでもこの手紙がありますようにとささやいた、ある時のその人の言葉を夢のように思い起こして、広瀬は一瞬間、今というものを忘れていた。
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