二月十二日、午前八時、用意を整え終わった広瀬は、三頭の馬をつけて、ソリを走らせた。
スレチェンスクからブラゴヴィチェンスクに到る間、ロモシカヤ、シルキノ、ウーストカラ、ゴルヴィツア、ポクロフスカヤと多くの駅を過ぎて、駅毎に馬と馬丁とを替えて行く。
馬は、一頭の価一ヴェルスト三コペーク。二頭の価六コペーク。三頭の価九コペーク。
駅毎に、馬一統につき、十コペークの税金を納める。馬は一時間十ヴェルストを走らなければ、小言を言うことができる。馬丁には必ず酒代をとらせる。おだてて急行させれば、十五ヴェルストまで走らせることも出来た。
駅には、必ず秘書がいるが、時には意地の悪い奴がいて、馬をくれない。そう言う場合は、すぐに備えつきの帳簿を出させてみる。規定として、一つの駅には馬三十頭を備えることになっている。郵便も送らねばならず、旅客の求めにも従わねばならず、折悪しく、先客がいるときなど、十二時間以上も待たされる。面白くもない小駅で、待つのなんぞは意味がないから、そんな時には、その村の百姓に頼んで、馬を借りる。そうすると、値段は、はって、普通の三倍から六倍になる。馬によっては、歩き方の遅い奴がいてイライラする。毎日毎日こうした事情を考慮して、旅するのだから、橇の旅行も容易でない。
書記が、馬を出してくれない時は、れいの帳簿で、この駅に現在いるのは、何頭の筈、そのうちの何頭は規定の休憩時間を過ぎていると、こちらから先手を打って、厳重な談判をする。馬がもう割り当ての先客を待っている時には、丁寧な言葉を使って譲っていただく。時には、軍服の威力で、威張り散らすこともあった。
一般にロシヤでは、軍人は、威張り散らすものと見られているから、俺も軍人だというところを見せて、こちらの命令に従わさせようとしたのである。
時には、少しばかりの金を与えて、書記を買収する。ワイロのおかげで、先客の馬を貰って、先を急いだ事も二度や三度はあった。
駅と駅との距離は、もっとも長い時、三十ヴェルスト。短い時で二十三ヴェルスト。駅はどれも荒れ果てた不潔な場所で、わずかに人家三、四戸が、点々とあるだけというような所もあった。
寒気はきわめて強烈である。駅に着くと、必ず橇を降りて、しばらく中で休息をする。駅の中では、外套を脱ぎ、毛布を脱ぎ、手袋を脱ぎ、靴を脱ぐ。そうせずにいると、外に出てすぐ寒さにおかされる。寒さを凌ぐため、駅では必ずお茶を飲む。肉や、ビスケットも取り出して食べる。駅と駅との間が長い時には、必ず腹をこしらえて、寒さを防ぐ。特に、熱い紅茶は、温かさが長くもって、有効であった。
駅を出て、二時間も橇車の中にいると、寒くなってくる。一番冷えるのは膝頭だ。ズボン下をつけて、ズボンをはき、毛皮の靴をその上につけても、膝小僧の附近は一番おおいが弱い場所なので、寒さを感じるのもひどい。
見渡す限り、氷の野原である。通過した駅亭は、シルカ河の左岸で、アムール河の本流の始まるところまでだ。両岸は、岩根こごしく、雪をかぶった松の木の森が続く。
アマザルからイグナチンスカヤの寒村を経て、渓谷を通り抜けると、急に視野が開けた。アルバジンの駅の辺りから、森が目につく。クスネツォフスキー附近の右岸に、柱の形をした岩の並ぶ所も通り抜けた。蒙古人の聖地、ラマの岩も見えるというが、夜で、よくわからず、南に向かって、遮二無二降りて行く。
また両岸は、山々に囲まれている。小さな駅が、点々と続く。そのうちだんだん、山々が後ろに退いた。
こうしてソリの広瀬は、昼走らせた、夜走らせた。文字通りに、南に向かって一路氷の原を乗りつづけること六昼夜と十時間。天白く、地白く、馬白く、人白し・・・・・
二月十八日午後六時ブラゴヴィエチェンスクの町に着いた。
二年前、対岸からシナ軍に砲撃され、大慌てに慌てて、町に住んでいたシナ人三千余人を、かためてアムール河に送り出し、無二無三に河に突っ込んでおぼれさしたという悲劇の跡の生々しい所である。
対岸にはもとシナの部落があったが、今は一軒も残っていない。道路はもちろん舗装されていない。橇の上から見ると、市街にも多少砲撃の跡が残っている。
フランス人の経理しているグランドホテルに入って、はじめてのびのびと寝台の上に手足を伸ばした。
この町には六日滞在して、中休みをした。イルクーツクでも、大分の中津江から来たと言う男に逢ったが、ここまで来ると人口も四万近いというだけあって、日本人も増えてくる。職業は、写真師、洗濯屋、石工などで、あとはいかがわしい職業の天草女だけである。ただ在留民の有力者、講道館出身の柔道家三角二郎に逢って、久し振りで勇ましい柔道着姿を見たのは嬉しかった。
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