オムスクまで来ると、もうアジヤ洲だ。しかしこの土地の主人はアジヤ人でない。
ただ見る、野も、畑も、川も、一面氷と雪に埋まっているではないか。
天も白かった、地も白かった。 「冬」 の主が君臨しているのだ。
二十四日にはイェニセー河の鉄橋を渡った。ふと 「遮莫家郷憶遠征」 という詩の一節を思い出した。
「長亭短亭幾度か経過し来る五八一七ヴェルスト。」
二十七日午前九時、流れの速いアンガラ河の彎曲した岸辺に木造の家々が立ち並ぶ古い街が見えてきた。イルクーツクだ。ここは東シベリヤの首府というが、道路も石が敷いていない。ただ例によって大伽藍だけが多くの金色に輝く寺院を従えてそそり立つのが目につく。総督府はいうまでもなく、博物館もあった。風と雪とがひどかった。来る日も来る日も同じなのだ。
問 ━ ━ 今朝も大分寒ソーダナー
答 ━ ━ イーエ、旦那サン 大ヘン暖フ御座イマス
問 ━ ━ 何度アルカネ
答 ━ ━ タッタ十四度デス (列氏ノ零下) 。
コレハ今朝当市ノ宿屋ニ於テ武夫ト給仕ノ間ニ起リシ問答デス
一月三十日 「イクルーツク」 ニテ |
|
という絵ハガキが示しているように、ちょっと日本内地では考えられぬような寒さだ。だが寒いだけで大して問題はなかったが、これから先が大変だ。
氷と雪に閉ざされたシベリヤの野原を幾千里か独りで踏み破らねばならぬ。ふつう旅人は護身用のピストルをこの町から用意するのだと聞かされていたくらいであるから、どんな災いが降りかかってくるかも計り難い。生きて日本に着けるかどうかも危うく思われて、一週間ほど滞在して、心にかかる用件は一切処理し終わった。特にペテルブルグの日本の友人達から託された金品の処置は入念にした。公私取り混ぜ多くの手紙も書いた。
なかでも一番心をこめた文は、アリアズナに宛てたものであった。
あなたの考えたこと、したこと、感じたこと、途中で出会ったこと、どんな事でもいいから書いてほしい。できるだけ長く書いてほしい。あなたに関する事ならどんな事でも私には大きな喜びを与えるという、別れの日のいじらしい言葉が胸に刻みこなれていたからである。
その文にはペテルブルグやレーヴェリにおける楽しき思い出を振り返って、意外に早かった別れを悲しみ、モスクワ以後の彼の行動を詳しく報じた。
「永久にいとほしき御身の上に神の幸あらんことを祈る」 と書いて、彼はその文を結んだ。
ちょうどペテルブルグ出発の前夜に、故郷の母の心をこめた手紙が届いた。加減が悪く薬を飲んでいるという知らせが気にかかっていたので、はじめて此処で返事を書いた。母はいうまでもなく、一家一族の一人一人、おかつにまで宛てた伝言を、遺言のようにこと細かに記した後、今までの行程を報じ、三月の末には日本に着いて、四月六日の御法事までにには帰郷できるかもしれぬと知らせた。
連想は続いて、ふと思い出したことがある。それは日本を発つとき郵便切手を集めている知り合いの少年にロシヤの切手をたくさんお土産に差し上げますと約束したことだった。
もし自分が途中で死ぬような事があれば、切手を待っているあの少年がどんなに失望するかわからないと考えて、兄の勝比古に一筆頼んだ。もしものことがある時にはあの少年にこの心ばかりの土産を届けてほしいと、彼は手紙の中に切手を封じ込んだ。約束を果たさなかったと思うと、死んでも死にきれない。永くもないわが生涯にせめて心残りのことだけはすまいと心に誓ったからである。
イルクーツクからバイカル湖まで六十二ヴェルスト。 「神聖な海」 という蒙古語から来たというが、そそり立つ山々に囲まれて静かに眠っているような大湖だ。
夏ならば緑の美しい水は透き通っているというが、十二月の終わりからすっかり凍ってしまった。 普段は砕氷船が二隻いて、厚い氷を破りながら旅客を渡す。
南岸の山々が険しすぎるために、それを貫く費用と時間とを惜しんで鉄道は敷かず、砕氷船を用いるという案を考えたのである。そのため、わざわざエルジックのアームストロング会社で建造した部分品を組み立てて、
「バイカル号」 「アンガラ号」 という特別装置の連結船を浮かべた。
だが現実はこの計画を裏切った。広瀬が来た時などとても寒く、氷が厚すぎて砕氷船が威力を発揮できない。仕方がないので、彼はわずかに橇によって湖上を横断し、南東ミッソヴァヤの駅にたどり着いた。
すべてイルクーツクから東に向かうバイカル線の客車は、一日わずかに一本しか出ない。東に東に向かって走り、チタを経由してから、カリムスカヤで支線に乗り換え、国境を越えてシナ領に入り、その第一駅マンチュリヤまで赴いた。
かねて時間表で研究すると、二十五時間で行き着くはずなのに、四十五時間かかった。
アガ、トゥルガ、ボルサ、シャラジンと小さな駅で十数時間も停車する。これは線路が新しく、まだ不完全で、機関手が熟練していないためだろう。平均すると速力はせいぜい毎時十三ヴェルストしか出ていないということがわかった。
これで一先ず輸送力研究の目的の一つを果たしたから、広瀬はすぐ引き返して、もう一度カリムスカヤ経由、インゴダ河、つづいてシルカ河の左岸に沿って東に走る。雪をいただいたヤブノロイの山々が時々岩肌を見せて、きらきら光っているのが、印象的であった。
この辺まで来ると、樫、くるみ、楡の木なぞ、葉の多い樹木が目につく。
スレチェンスクの街で降りた。人口は七千近くあると威張っているが、しょせん夏期にアムール河を上下する汽船の発着点にすぎない。多寡の知れた田舎町だ。ここは夏から秋の初めまでが盛り場で、九月になるとアムール河の水量がずっと減るから、船の運航も困難である。二月の初めでは河も氷つて、もう船どころの話ではない。ソリだけがものをいう。
|