『たとひ異国
とはいへ四年
余
の星霜
ヲ打暮らせしことなれはいとど名残の惜まるるに、まして 「ぺてるぶるぐ」 の知己など吾
を視る猶
おのが一家のものの如く親しみしことなれば、彼の人々と立別れんも中々
辛
らき思あるに彼
の人々の中には涙を浮ぶるあり、子供どもには声を挙
げて泣き号
ぶもありて、吾も亦彼等の情に誘はれて思
はず涙ぐみぬ。』
『武夫の始めて露国へ留学と伝へる恩命
を添せしときは、兼
てよりの志
、玉
の緒
のあらん限
りと迄勇みしも、志は心と違
ひ、この永
の年月学ひし処と得し処を顧
みれば予
め望みし程の半
にも至らすして、しかも己
の嗜
も幾分か失ひて、むざむざと国元へ立帰
らんとや』
『武夫が久
振
に立帰るとて最も待ちうけ最も悦ばるへき者は誰
ぞ。噫矣。吾が尤
も恋ひ慕ひ参らせし老祖母様も、父上様も、武夫が露西亜に留
まりし間に身
逝
(りたまひ) ぬ。吾が帰
を最も待
、最も悦るへき人の今や此世に在
さぬ人となりぬ。噫矣。且つ弟潔
夫
(日本発途以前ニ其死去ノ報知ヲ得) も、吉夫も、亦無き数に入りぬ。之をひ彼を思へば、喜ふへき本国への首途
にも、云ふ可らざる感慨
の胸に満
ちぬ。』
『加藤寛治
と武夫とは素
より親しき間柄なり。今迄幾度
か袂
を分つ折ありしも、いつも打
笑
みて潔
く立別れたりしが、吾か聖都よりの首途
に臨
み、彼か言彼の家
に残せし老
たる母のことに及び、眼
に涙を浮
べしときは、武夫も其感に打たれて、彼とは特更
に名残の残るる心地しぬ。かかる感慨を齋
らしし親しき人々 (在聖都ノ日本人ハ殆ト総員、露人ニハ其送別ヲ謝絶セシモナホ七人程) に見送られ 「にこらえふすきー」 停車場を立
去
りしは、正に明治三十五年一月十日あまり六日 (露暦1902年1月3日) の夜
拾時なりき』
広瀬がロシヤ時代にもちいた長さ十センチ巾六センチ厚さ四ミリの黒皮表紙の手帳がいまに残っている。それを丹念に調べてゆくと、ここに書き写したような文章が出てきた。その手帳はメモや覚書がところどころに記されているのだが、それにしては、この短文だけ珍しく筆跡も美しいし、意識的に文章をものそうとした跡が強く出ている。あるいは八代先輩の流れを汲んで、シベリヤ紀行を書こうという目的で、その下書をしていたのかもしれない。
1902年初めの文体だから、テニオハや仮名遣いは言うまでもなく、借辞や文章法にもヘンなところ、読みにくい所はあろうが、ロシヤを立つときの広瀬の心がそのままに盛られていると思うから、わずかにルビを加え、句読点をつけただけで、文体には少しも筆を加えずにそのままここへ出す事にした。
文は続く。
『汽車の内には 「あれくさんどる」 劇場の若き女役者乗
合
せければ乗合せる人々の打
集
ひて彼
と打
談
ふ様
の面白かりき』
『翌
る朝の十時過に墨士
科
に着き 「スラヴィヤンスキー・バザール」 に身を投じぬ』
『墨士
科
にては日頃の労
(耶蘇 [生] 誕日ヨリ新年又暇ノ為ニ煩殺セラレヌ) を休めんとせしも、夫々
に手紙 (今年ニ入リ一通モ認メス) を送ることや切符を買ふことなどに追はれ、且つ翌日聖都より 「ペテルセン」 博士も来り会
せければ忙敷
そこそこに十八日の夜九時四十分発の汽車に乗込みぬ。博士は其夕
知友の許へ武夫を誘
ひ、又停車場へ見送り呉れぬ。』
『仝
博士一家の者とは武夫も至
テ心易
くせしが、其子息 「をるすか」 の吾
を信すること深く、吾を二つとなき年長の朋
と頼みたりしが、聖都出発の砌
、見送に遅れたりとて無念かり、其父によりて永き手紙を寄せたりしが、其真心
も溢るる許
りにて、武夫も之に動されて幾度
となく此繰返
し繰返し果ては酸鼻
まで至
りぬ』
ここで文は終っている。ペテルブルグ出発のときの広瀬の内外は手にとるようにわかるではないか。
註をつけると、モスクワで泊まったスラヴィヤンスキー・バザールというのは、ニコライスカヤ通りにあるモスクワ一の大旅館だ。その地で書いた手紙は、いま兄嫁に宛てたものだけが残っている。
こうして彼は、十八日夜モスクワのクルスキー停車場を発った。
この汽車は日本海軍の仲間が 「贅沢車」 とあだ名していたもので、寝台も食堂も浴室も、いやスティームの設備さえ整っている。もっともペテルブルグからモスクワの間は一時間五十二ヴェルストの速力で走ったが、モスクワからイルクーツクの間は八日かかる。速力も三十六ヴェルストしか出ないから、モスクワまでの急行に比べるとスピードは半減する。
今まで八代中佐をはじめ海軍の連中が日本に帰る時は、たいてい夏を選んでシベリヤを通過した。それが今は極寒の最中である。空気は乾いて、何もかも静かだ。トムスクでは零下十九度、イルクーツクでは零下二十八度というのが例年一月の標準だというが、とにかく寒い、寒い。
ヴォルガの大鉄橋は一月二十日の夜明に通過した。ウラルの山を越えるまでは見渡す限りの大平原だった。
車窓から白樺、白楊、榛の木などが見分けられた。一路東に走って行く。木造の貧しい小屋がところどころに見えて、とにかく荒涼とした人煙稀な感じである。森林地帯を見る。雪に輝く山々が遠望された。
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