『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第二十一章・ シ ベ リ ヤ の 雪 と 氷 ==

『たとひ異国とつくに とはいへ四年よとせ あまり星霜としつき ヲ打暮らせしことなれはいとど名残の惜まるるに、まして 「ぺてるぶるぐ」 の知己などわれ を視るなお おのが一家のものの如く親しみしことなれば、彼の人々と立別れんも中々なかなか らき思あるに の人々の中には涙を浮ぶるあり、子供どもには声を げて泣きさけ ぶもありて、吾も亦彼等の情に誘はれて  はず涙ぐみぬ。』

『武夫の始めて露国へ留学と伝へる恩命をほせ を添せしときは、かね てよりのこころざしたま のあらんかぎり りと迄勇みしも、志は心とたが ひ、このなが の年月学ひし処と得し処をかへり みればあらかじ め望みし程のなかば にも至らすして、しかもおのれたしなみ も幾分か失ひて、むざむざと国元へ立  らんとや』

『武夫がひさし ぶり に立帰るとて最も待ちうけ最も悦ばるへき者はたれ ぞ。噫矣。吾がもつと も恋ひ慕ひ参らせし老祖母様も、父上様も、武夫が露西亜にとど まりし間に まか (りたまひ) ぬ。吾がかへり を最もまち 、最も悦るへき人の今や此世にいま さぬ人となりぬ。噫矣。且つ弟きよ (日本発途以前ニ其死去ノ報知ヲ得) も、吉夫も、亦無き数に入りぬ。之をひ彼を思へば、喜ふへき本国への首途かどで にも、云ふ可らざる感慨おもひ の胸に ちぬ。』

『加藤寛治ひろはる と武夫とはもと より親しき間柄なり。今迄幾度いくたびたもと を分つ折ありしも、いつもうち みていさぎよ く立別れたりしが、吾か聖都よりの首途かどでのぞ み、彼か言彼のいへ に残せしおい たる母のことに及び、 に涙をうか べしときは、武夫も其感に打たれて、彼とは特更ことさら に名残の残るる心地しぬ。かかる感慨をもた らしし親しき人々 (在聖都ノ日本人ハ殆ト総員、露人ニハ其送別ヲ謝絶セシモナホ七人程) に見送られ 「にこらえふすきー」 停車場をたち りしは、正に明治三十五年一月十日あまり六日 (露暦1902年1月3日) の 拾時なりき』

広瀬がロシヤ時代にもちいた長さ十センチ巾六センチ厚さ四ミリの黒皮表紙の手帳がいまに残っている。それを丹念に調べてゆくと、ここに書き写したような文章が出てきた。その手帳はメモや覚書がところどころに記されているのだが、それにしては、この短文だけ珍しく筆跡も美しいし、意識的に文章をものそうとした跡が強く出ている。あるいは八代先輩の流れを汲んで、シベリヤ紀行を書こうという目的で、その下書をしていたのかもしれない。
1902年初めの文体だから、テニオハや仮名遣いは言うまでもなく、借辞や文章法にもヘンなところ、読みにくい所はあろうが、ロシヤを立つときの広瀬の心がそのままに盛られていると思うから、わずかにルビを加え、句読点をつけただけで、文体には少しも筆を加えずにそのままここへ出す事にした。

文は続く。
『汽車の内には 「あれくさんどる」 劇場の若き女役者のり あは せければ乗合せる人々のうち つど ひてかれうち かたらさま の面白かりき』

あく る朝の十時過に墨士モスク に着き 「スラヴィヤンスキー・バザール」 に身を投じぬ』

墨士モスク にては日頃のつかれ (耶蘇 [生] 誕日ヨリ新年又暇ノ為ニ煩殺セラレヌ) を休めんとせしも、夫々それぞれ に手紙 (今年ニ入リ一通モ認メス) を送ることや切符を買ふことなどに追はれ、且つ翌日聖都より 「ペテルセン」 博士も来りあわ せければ忙敷せわしく そこそこに十八日の夜九時四十分発の汽車に乗込みぬ。博士は其ゆうべ 知友の許へ武夫をいざな ひ、又停車場へ見送り呉れぬ。』

どう 博士一家の者とは武夫もいつた テ心やす くせしが、其子息 「をるすか」 のわれ を信すること深く、吾を二つとなき年長のとも と頼みたりしが、聖都出発のみぎり 、見送に遅れたりとて無念かり、其父によりて永き手紙を寄せたりしが、其真心まごころ も溢るるばか りにて、武夫も之に動されて幾度いくたび となく此繰返くりかえ し繰返し果ては酸鼻なんだぐむ までいた りぬ』

ここで文は終っている。ペテルブルグ出発のときの広瀬の内外は手にとるようにわかるではないか。
註をつけると、モスクワで泊まったスラヴィヤンスキー・バザールというのは、ニコライスカヤ通りにあるモスクワ一の大旅館だ。その地で書いた手紙は、いま兄嫁に宛てたものだけが残っている。

こうして彼は、十八日夜モスクワのクルスキー停車場を発った。
この汽車は日本海軍の仲間が 「贅沢車」 とあだ名していたもので、寝台も食堂も浴室も、いやスティームの設備さえ整っている。もっともペテルブルグからモスクワの間は一時間五十二ヴェルストの速力で走ったが、モスクワからイルクーツクの間は八日かかる。速力も三十六ヴェルストしか出ないから、モスクワまでの急行に比べるとスピードは半減する。
今まで八代中佐をはじめ海軍の連中が日本に帰る時は、たいてい夏を選んでシベリヤを通過した。それが今は極寒の最中である。空気は乾いて、何もかも静かだ。トムスクでは零下十九度、イルクーツクでは零下二十八度というのが例年一月の標準だというが、とにかく寒い、寒い。
ヴォルガの大鉄橋は一月二十日の夜明に通過した。ウラルの山を越えるまでは見渡す限りの大平原だった。
車窓から白樺、白楊、榛の木などが見分けられた。一路東に走って行く。木造の貧しい小屋がところどころに見えて、とにかく荒涼とした人煙稀な感じである。森林地帯を見る。雪に輝く山々が遠望された。

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