『ロシア における 広 瀬 武 夫』 (抜 粋)

島田 謹二:著 ヨ リ

== 第二十章・ 誰 破 相 思 情 ==

二月八日は静かな暗夜であった。月の出は午前二時の予定である。ロシヤ艦隊は、旅順港外に四列になって停泊していた。
中央の二列に七隻の主力艦船が小口径砲に装填して並び、巡洋艦群がその前列に厳重な警戒網をしいていた。
夕方の六時には陸上との交通を一切断ち切って、夜に入ると同時に、港外遠くニ隻の哨艦が索敵の為派遣された。
この夜の警戒の当直は、第一列の三番艦と第二列の二番艦とに、割り当てられている。ルチン岩の近く、第二列の最先端におかれた 「ツェサレーウィチ」 の艦橋からヴィルキッキー少尉は、何気なく周りを見渡した。当直艦の位置があまりに折り重なっていて、敵に襲われた時発砲するのに都合が悪いのではないか。そんな不安も湧いたが、未経験の若い少尉だから、口に出すのがはばかられた。停泊燈が点じられていただけでなく、まだ石炭積みが終らないのか、ガヤガヤ声が聞える。艦橋の灯にあかあかと照らされている艦も見えた。双眼鏡で見ると水雷防禦網も張り出されていない。何となく、あぶないぞと胸がドキドキした。
遠い沖合いに投げられた探照燈の光が闇を破って鈍く光る。要塞と当直艦が照らしているのだ。月はまだのぼらない。全くの闇夜であった。時々探照燈の光の中に大きなロシヤ軍艦が影絵のように浮き出している。
当直でなかったから、ヴィルキッキーは寝室に下りた。寝つきが悪くうとうとしていると、ラッパが鳴った。水雷防禦の号音だ。飛び起きようとした時、何とも言いようのない物凄い轟音が足下から起こった。釣床が急に傾いた。
敵襲だ!無我夢中で跳ね起きた。上甲板めがけてドカドカと人が駆け抜ける。押し合いへしあう。バリバリバリと機関銃の耳を裂くような音がした。上甲板に駆け上る。前列の巡洋艦が猛射しているとみえ、闇に赤い閃光がきらめく。
心臓が凍った。持ち場に着いた刹那、無数の観念が同時に頭にひらめいた。身体がブルブル震える。艦はもうひどく右に傾斜していた。水兵たちが 「日本の魚雷をくった。沈むぞ!」 とあちらこちらで叫んだり、オロオロして立ったり坐ったりしている。制止しようにも声が出てこない。

探照燈がサッと点じられた。海上は目くらむばかりの光景となった。青白い光が四方八方から放たれて、ぐるぐる動いていた。
べっとりと冷汗が流れた。急に真闇の中に小さな水雷艇らしいものの影がとらえられた。
ボム、ボム、ボムと五本煙筒の巡洋艦が猛烈な機関砲火をあびせかける。
「ツェサレーウィチ」 も打ち出した。たちまち艦尾をかすめて燐光が一線を引いて流れる。雷跡だ!
その小艇の上にパッと火花が散った時、命中か!と小躍りした。次の瞬間に水雷艇はもう姿を消していた。
「魚雷はそれたぞ!」 と怒鳴る奴がいる。艦はだんだん傾いてゆく。
後部砲塔下の舷側が日本魚雷のために打ち破られた。機関部に烈しく進水した。
士官室は水びたしだ! と叫ぶ声が聞えた。戦死者も出たらしい。負傷者を運ぶ担架が縦横に走って行く。電燈が消えた。ヤミの中でみんながガヤガヤする。

そのうち砲声がピタリよ止んだ。艦長グリゴローウィチ大佐は次から次へと命令する。どうやら兵員も落ち着いて、破られた舵取室の排水作業にとりかたった。
艦長は錨鎖を切断して、微速で運転しだした。僚艦が一隻、ひどくやられたとみえて、これまた傾いで徐行する。曳舟が来た。ノロノロ引かれて内港に入ろうとする。たちまち鈍い音が重く伝わって、艦は座礁してしまった。
この時ちょうど月が上って、まわりの光景を照らし出した。静けさが、辺り一面を領してヘンに無気味だった。下甲板から物品を移動する物音、修理ポンプの単調な音が急に聞こえ出した。受け持ちの六吋砲の側に坐ったまま、ヴィルキッキーは、歯の根がガクガクしたまま、夜がほのぼのと明けるまでマンジリともしなかった。

朝が来た。回りを見渡すと、港の入り口に巨艦が一隻、艦首を水びたしにして座礁している。その姿が幻のように靄の中に見え隠れする。 「レトウィザン」 の変わり果てた姿だ。ギョッとした。訳が分からない恐怖だった。 「フェサレーヴィチ」 の周りにも小蒸気船・曳船が群っていた。そのうちヴィルキッキーもいくらか落ち着きを取り戻してホッとした。
従卒が苦労して作った茶を呑むと、やっと歯の根のガクガクが止まった。今日は晴れると見えて明るい日差しだ。市街が見えた。赤い日差しを浴びているのがヘンに不吉だった。

午前八時ごろ、思わず疲れが出てきて、どうにも我慢できずうとうととした。突然艦橋から 「日本艦隊が見えるぞゥ----」 と怒鳴った奴がいる。
物につかれたように兵員が駆けてゆく。中には腕ぐみしたままで、昨夜の悪夢の正体をただボンヤリ見ている奴もある。
日本巡洋艦であろう、猟犬のように見るからに軽快な新式艦が四隻、老鉄山の高角から南東に進路を向けて近づいてくる。7千メートルまで近づいて徐行している。だいぶたってから 「ボヤーリン」 が出動した。猟犬を追う猟犬である。たちまち両方とも視界の外に消えた。
しばらくたつと、 「ボヤーリン」 が艦尾砲火をさかんにひらきながら、急いで引き返してきた。どうしたのかと双眼鏡で眺めると、マストに高く掲げられた信号は、 「テキノシュリョクミユ」 と読まれた。
「ツェサレーウィチ」 は、そのままの姿勢で砲撃する事に決まって、六吋砲に装填を命ぜられた。
ロシヤの主力艦群は 「ペトロパウロフスク」 を先頭に錨を上げて、隊形もゴタゴタ港外に並んだ。出動しない 「ツェサレーウィチ」 から見ていると、味方ながら歯がゆかった。

午前十一時三十分、日本の主力艦隊が、靄の中から、一つ、また一つ、水平線上に姿を現した。灰色に塗られたそのシルエットが、何ともい得ないぐらい不気味だった。ヴィルキッキーは双眼鏡に写る艦影を一つ、二つ、三つ、四つと数えて、かねて配られていた日本戦艦の艦型図と照らし合わせた。
ミカサ、アサヒ、フジ、ヤシマ・・・・。それは平和の時アリアズナが広瀬に教えられて、その名を嬉しく口ずさんだあの艦の名前であった。
いまのヴィルキッキーの気持ちはまるで違う。胸がドキドキして、耳が鳴って、喉ばかりかわく。はっきり識別しようとしても、どの艦の姿も一様にしか映らなかった。二本マストはどうやらわかったが、煙筒が二本なのか三本なのか、よく見分けがつかなかった。
でも若い少尉には、ただ 「朝日」 だけがわかればよかった。あの艦隊の中にいるに違いない。 「朝日」 がいるにちがいない。もうあそこまで来ている、あの懐かしいタケニイサンは、・・・・・そう思った刹那、その人が敵だという自覚が初めてはっきりしてきた。
タケニイサンではない、日本海軍の広瀬少佐の言葉が電光のようにきらめいた。きらめくと、少尉も前よりはいくらか落ち着いた。
もう一度双眼鏡を目に当てた。一番艦は、 「朝日」 か、「三笠」 か。二檣二煙突の戦艦らしい。 「富士」 や 「八島」 でないことだけは確かだ。
砲廓の中から六吋砲の狙いをつけている射手に向かって、少尉は大きな声で命令した。
「目標 敵の一番艦! 八○○ 苗頭 右へ。」
その声の震えを、しかし、少尉はどうする事も出来なかった。
たちまち日本艦隊の一番艦の前部砲塔から淡黄の煙が吹き出した。あ、射つたな、とボンヤリ想った時、ものすごい轟音が空をかすめて飛んで、少尉は本能的に頭を下げた。重砲弾は、しかし、遠く港外に出た 「ペトロバウロフスク」 の近くにものすごい水柱を上げて落下した。
あんんあい距離が離れているのに、おれはこんなに恐ろしく感ずるのかと少尉は自分に申し訳がないような気がして、誰にともなく顔を赤らめた。
タケヌウサンの教えがまた浮んできた。俺を狙って射ったと思うと、敵愾心が猛然と湧いた。
目を吊り上げて恐ろしい形相となったヴルキッキーは、引き金に指を掛けている射手に向かって、 「ウテーッ!」 と叫んだ。
百ポンド榴弾は茶褐色の薄い煙と共に、沖合い遠く見える目標の日本戦艦めがけて飛んでいった・・・・。

今は敵になったヴィルキッキー少尉の働きを知るや知らずや、広瀬は、二月中旬、十死あって一生なき閉塞隊の指揮官の一人に選ばれた。
静かな雨が降っていた。ゆるやかに波がうねっていた。
「三笠」 の艦橋に居並ぶ長官以下司令部の挙手の礼を受け、軍楽隊の吹奏曲の中に、各艦が万歳を三唱する登舷礼式に送られながら、五隻の閉塞船は、一隻また一隻静かに死地に進んで行った。
「報国丸」 の船室で、広瀬はヴィルキッキーに宛ててロシヤ語の手紙を書いた。
「今度、不幸にもあなたの国と戦う事になった。何とも言いようがないほど残念である。しかし、これは国と国との戦いで、あなたに対する個人の友情は昔も今も少しも変わらない。いや、こんな境遇の内にいるからこそ、却って親しさも増してくる。
平和が回復するまでは、かねて申しあげたように、武人の本懐をお互いに守って戦い抜こう。
げんに武夫は九日の昼には戦艦 「朝日」 の十二吋砲を指揮して、旅順沖の貴艦隊を熱心に砲撃した。それさえあるに、今度は貴軍港を閉鎖しようと願い、 「報国丸」 を指揮して、今、その途上にある。
さらば、我が親しき友よ、いつまでも健在なれ。」
この手紙は、二月二十三日の夕、通信艇に託された。今は思い残す所なしと、彼は勇躍して、閉塞の壮途についた。

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