パヴロフ博士の知り合いに、ボリス・ヴィルキッキーという若者がいた。額が広く、知性優れているが、女と見まごうような優しい美青年だ。身分は海軍兵学校を卒業したばかりの候補生である。
広瀬のことを大変慕って、二言目には 「タケニイサン、タケニイサン」 と日本語で呼びかけてくる。
1902年の元旦パヴロフ博士の部屋で、広瀬送別の宴が開かれた時、ヴィルキッキーはぜひ自分も一緒に加えてくれと頼んで、臨席した。
博士は 「子供達があんなに世話になった。記念の贈物をぜひ受けて頂きたい」 と、この日の為に作らせてあった黄金づくりの大きな匙を贈呈した。裏をかえすと、馬上のピョートル大帝像が鮮やかに焼き付けてある。表のへいには、パヴロフ家のシューラ、マルーシャ、セリョージャ、パブルーシャと四人の子供達の愛称が彫られ、1902年1月1日と、記念の日付が真ん中に刻んである。
もう一つの装飾用の七宝焼の小型の黄金杯には、 「パヴロフ一家より記念の為に」 と銘が刻み込んであった。
普段はたちまち 「肩車をして・・・」 とせがんで慣れ親しむ子供達も、今日ばっかりはおとなしい。家族の人々は、ヴィルキッキーも加えて、記念撮影をした。向かって右に文官服姿の博士の髭面が、真面目な顔で坐っている。夫人が中心に女王の位置を占め、四人の子供達が、夫妻の脇と前に並んだ。右に次女のマルタ、前に長女アレクサンドラ、真ん中にバーヴェル、広瀬の前に兄のセルゲイ。大礼服姿の広瀬は向かって左に、礼帽を右脇にはさみ、左手に剣を抱えて、嬉しいような、いささかテレ気味の微笑をたたえて立った。候補生姿のヴィルキッキーは、広瀬の後ろに添うようにつつましく並んだ。
候補生は、
「タケニイサン、艦に乗ったらこれを使って下さい。」
と、ふだん愛用している柄のついた銅の酒盃を贈った。
「こんなにありがたいものを頂いた君とは、敵味方に分れられませんね。」
と、いつになく厳粛な顔をして、広瀬が言った。
「お互いに戦わねばならない時には、きっと所在を知らせて下さい。私からもお便りをあげる。砲火の中でまみえると時は、お互い愛する祖国のためです、全力を上げて戦い抜こう。これが武人の本分ですから。」
「その時は、医者の僕が、最後の仕末をつけてあげる。」
とパヴロフ博士が、いつもに似合わぬ冗談を飛ばした。
海軍少尉に任官したボリス・ヴィルキッキーは、1903年晩夏ロシヤ最大最新の戦艦 「ツェサレーウィチ」 に乗り組み、そのまま極東に回航を命ぜられた。
翌年一月、彼は旅順港から、かねての約束を守って、広瀬のもとに所在を明らかにする為、極東に着いたと通信した。
戦備を整え、猛訓練を重ね終わって、佐世保に集結していた連合艦隊の主力、戦艦 「朝日」 の水雷長室で、この手紙を受け取った広瀬は、1902年元旦パヴロフ邸での言葉を思い起こして、ただ感慨無量であった。
1904年2月9日午前十時、黄海は波おだやかだった。うすい霧がかかったいた。
国運を賭して出撃してきた日本海軍の主力は、かって広瀬がアリアズナにその名を教えた六隻の戦艦を先頭に、隊伍整々と進んでいた。
やっぱり六隻いた。あの時と違うのは、序列だけだ。アリアズナはアサヒ、ヤシマ、シキシマ、続いてハツセ、フジ、ミカサ と口ずさんだが、いま見る陣容は、
「三笠」 が東郷中将の将旗を前橋に翻して、先頭に進んでいる。
広瀬の 「朝日」 は、二番艦だ。 「富士」 「八島」 が、中央に三番艦四番艦として並び、五番艦 「敷島」 に続いて、少将旗をはためかした殿艦
「初瀬」 が後尾を固めている。
この六隻は、もう、アリアズナがあのロシヤ語の書物の上で見た線と輪郭でつくられたただの艦型図などではなかった。厚い鋼鉄に装われて、両舷に巨砲を無数に突き出した、現実の恐るべき大戦艦群である。
十年の間 「日本」 が、国民の肉をそぎ、血を注いでつくった、涙と怒りと汗の結晶体であった。
祖国の進展を阻止するものは、いかなる勢力といえども破砕しようとして、日本人の意気と忍耐と努力とがつくり上げた鋼鉄の塊であった。
その六隻がいま、各艦闘志をみなぎらせ、黒煙をなみかせて、五百メートルの間隔をひらきながら、一路、西方をめがけて直進している。
いや六隻の艦隊だけではない。すぐそのあとに、広瀬がヨーロッパを見たとき、詳しく視察してきた大巡洋艦群が続いていた。あの豪快な上村彦之丞の所在を示す真新しい中将旗を高く掲げた
「出雲」 が真っ先だ。 「吾妻」 「八雲」 と、あの時見たのとそっくり同じ姿が雄々しかった。
「常盤」 が四番艦、 「磐手」 がしんがりだ。八代先輩の指揮する 「浅間」 だけは見えなかった。 「笠置」 の恐るべき敵として兄に警告した
「ワリヤーグ」 を撃滅するために、主力から抜かれて、第四艦隊とともに仁川沖に向かって急行していたからである。
十一時、日本艦隊は、偵察に出した快速巡洋艦戦隊を戦列に加え、目指す敵軍港の南東二十海里の位置から、艦首をぐるりと向けて、進路を北西、微西、西にさだめ、十五隻の順列単縦陣をつくって、段々速力をあげていった。
陸地が見えた。十一時二十五分 「三笠」 に一旋の信号旗が上がった。
作戦参謀秋山真之少佐が長官の命を受けて掲げさせた信号である。
「勝敗ノ決此ノ一戦ニ在リ。各員努力セヨ」 と読まれた。各艦に歓声が湧いた。
風はかすかに吹いて、波は穏やかである。旅順口外には、霧がぼんやりかかって、マストや煙突が、所々に現れる。望遠鏡を取って眺めると、大きな軍艦が少なくとも十二隻は数えられる。昨夜の日本駆逐艦の魚雷を受けたとみえて、ひどく傾いている大きな艦もあった。少なくとも二隻は岸に乗り上げた模様である。陣形がゴタゴタ乱れているだけは確かだった・・・・・・。
「八千五百メートル!」
観測手の甲高い声と共に、艦隊は進路を正西にかえた。たちまち、 「三笠」 の前部十二吋砲が薄い黄色の煙をふき出した。あっと見る間に、恐るべき音響が空中に響き渡って、いかなる装甲をも貫き通す、重量八百五十ポンドの徹甲榴弾は、満艦の怒りを込めて、敵陣の真ん中にぶち込まれ、十丈余の水柱を高く上げた。時計の針は、午前十一時五十五分を指していた。
遅れはせじと 「朝日」 の前部一二吋砲が火蓋を切った。 「富士」 と 「八島」 が火を吹いた。間髪を入れず、ロシヤ軍艦と砲台とがいっせいに応戦した。
三分、五分、時は経つが、時間はまるで意識にのぼらない。
砲戦はいよいよ激しくなった。ロシヤ側は、直射砲、榴弾砲と続けさまに火蓋を切ってくる。日本戦艦の一二吋砲弾が、ロシヤ戦艦に命中した。もうもうとした黒煙が空を覆う。真中の煙突からは白い煙が噴出した。両軍の戦艦に命中する砲弾、陸上で炸裂する砲弾、水面に落下して水柱をあげる砲弾、それらがみな入りまじって、視界は暗く覆われた。きらめく紫電の中に、太陽も光を失った。
それは凄烈な三十分の決闘であった。
「朝日」 の最上艦橋で怒号する小柄な砲術長が加藤寛治少佐だということを知ったら、アリアズナは、どんなにか驚いた事だろう。
水雷長広瀬はこの時第一分隊長も兼ねていたから、 「朝日」 の前部十二吋砲を指揮して、ロシヤ戦艦群に猛烈な方かを浴びせかけた。はじめは最新式の
「ツェサレーウィチ」 を探し求めた。港口近くにのしあげているとみえて、直接の相手にはならない。彼は専ら目標をウロウロしている戦艦 「ボヴィエーダ」
に転じて、この十二吋の鍛鋼榴弾を集中した。
明らかに命中したものもある。敵弾も 「朝日」 をかすめて飛ぶ。艦を離れるわずかに二、三十メートルのとこrで、海中に落ち、十余丈の水柱を高くあげて、上甲板までずぶ濡れにさせたヤツもあった。
日本艦隊の攻撃がロシヤ側に幾太刀かを浴びせかけて、相手を傷つけ士気を喪わせたことは確かである。
ただ六千二百メートルにまでしか接近しなかったのは拙い。少なくとも四千メートルに肉薄して、各個小隊右八点に斉動、左右両舷の猛撃を食らわせれば、戦果はもっとあがったろう。それだけが口惜しい。
しかし武運は 「朝日」 を守った。敵弾は一発も命中しなかった。軍医官などは手持ち無沙汰のようにさえ見受けられた。
「武運ハ朝日ヲレリ。今後共必ズ朝日ヲラン。乗員モ亦固ク之ヲ信ジ戦フ毎ニ愈々沈着ニシカモ活発ニ動作シ、朝日ノ武威ヲ輝サン事ヲ容レザラン」
と広瀬は日記に書きつけた。
二月八日の夜襲で 「朝潮」 か 「霞」 の魚雷を受けたとみえる、 「ツェサレーウィチ」 は艦底を破られ、舵をこわされて、後部がひどく傾いて擱座したという情報が入って来た。ヴィルキッキー少尉の俤が浮んだ。あの白哲の美青年が、荒くれた水兵たちを指揮して、水線下の大きな破口を防水蓆で塞ぐ懸命なかいがいしい姿がつづいて浮んだ。かねて説いて聞かせた士官の本分をつくしているにちがいないことだけは確信された。 |