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また陰鬱な冬空が頭の上から覆い被さってきた。でも雪は矢張り美しい。なにもかも柔らかく、真白く若やいで見える。外に出ると普段の町とはかわった見慣れぬ感じでいっぱいだ。空気まで透き通っているように思う。馬車の車輪の音も衣につつまれたように響く。
冬のセゾンが始まって、花やかな夜会は、毎晩のように催された。いつもは常連のコヴレフスキー令嬢の姿が見えない。どうしたのかと噂好きの人々が、とりどりのゴシップを流す。
「この頃はお宅にも見えないそうですよ」 とか
「どこか遠い国の陸軍さんに熱を上げているそうですね」 とか、見てきたような噂が飛び出す。
ある夜、広瀬は、知り合いのロシヤ人の舞踏会に招かれて、あまり上手とはいえないダンスのお相手をしていた。
「相変わらずだね」
という声が聞えて、ふり向くと、かねて知り合いのウラジミールスキー中尉が笑いながら立っていた。
「タラースイワーニウィチは武道の達人だそうですが、ダンスにだけは、どうも向かんと見える。」
と、悪意なくこきおろして、
「ときにA令嬢はその後どうなすった?」 と追い討ちをかけて来た。
「この数日、お目にかからんが、何か変わった事でもありますか?」 とありのままに答えて、ありのままに問うと、
「大変な噂がうずまいていますよ。Aさんは、どこかの海軍武官にもう首ったけだそうだ。あんな綺麗な女の人に追いかけられるなんて、果報な男だなあ」
と、意味ありげに、広瀬の顔をじろりと眺めて、
「もうペテルブルグにはいませんよ!」
と、からかうのやら、皮肉を言うのやら、いつものような人を煙にまく戦術に出た。そばにいる人々がどっと笑った。
「ロンドンへ行っているんです。その果報者の国では、英語しか通用しないから、Aさんは、ロンドンで英語をしてるんだよ。」
またどっと笑い声があがった。怒るわけにもいかず、苦笑いして、その場は切り抜けた。
少将邸でアリアズナに会って、その噂を伝えると、うれしいような悲しいような、何とも言えない表情をした。
「英語を勉強してるにはほんとうよ。今までちっとも勉強しなかったのに、この頃とてもよくお出来になります、と先生もおっしゃったわ。舞踏会なんてつまらないのね。相手になっていただきたいとか、この次はおあきですか、とか、うるさいことばかり・・・・・・」
と、美しい眉をひそめて、
「わたしがちっとも夜会に出ないものだから、母が心配して、いろいろなことを聞くけれど、理由なんかないわ。あんなつまらない人たちがウヨウヨしている舞踏会など行きたくもありません。こうして一人で居る方がよっぽどいいのよ・・・・・」
愛されて愛さぬ人はいない。多感な人ならなおさらである。もともと気性が合い、精神の同族と感じたアリアズナに対して、広瀬の心はだんだん惹かれていった。
気がついてみると、彼はもうアミチェと呼ぶだけでは言い尽くせない、いくらかそれとは色合いの違う心持になっていた。こんな心持を言い表す言葉を求めれば、やっぱり昔から用いているアムールというのがあたるらしい。だから二人の心は
「相思」 というのが適当であった。
十二月も半ばになった。積雪が深くなって橇が縦横に通うようになった。ある雪の夜、彼はアリアズナとトロイカを走らせた。軽い、軽い。まるで飛ぶようだ。今夜はいつも乗る橇と違って、天馬が雲を蹴って、蹄に声ある思いであった。雪明りの道は滑らかである。新しく降り積む雪の上に、轍の跡がくっきりと残る。静かである。ただ鈴の音だけが、凍った初冬の空気を破って聞こえるばかり。
ジュコーフスキーの話が出た。ロシヤの呪文の一番恐ろしいのは、恋しい人の面影を鏡の中に浮き立たせる業だという。
その業を用いて、スヴェトラーナは、遠いところにいる恋人を呼び出し、一緒に橇に乗って、月夜の道を教会へ急ぐ。
不気味な暈が月にかかって、野は一面の銀世界である。ただ馬の蹄の音だけが聞える---ちょうど今夜のように。
恋人は、ただ蒼ざめ、悄然としてものも言わない----月光と同じだ。街道のほとりに教会が立って、扉が開いていた。中へ入って二人は結婚の式を上げる。急に吹雪が渦巻いて、馬も、橇も、恋人も、みんな姿が消えてしまう。後はただ、スヴェトラーナ一人だけが残される。彼女は立ち上がって十字をきり、貧しい一軒の小屋を見つけて入ってみると、そこには、寝棺が一つ置かれていただけだった。
「不気味な話でしょう。ロシヤの学校では、きっと読ませて暗誦させる歌だけれど、わたしはあまり好きでないのよ。恋人が急に姿が見えなくなってしまうなんて、悲しいじゃあありませんか。わたしはプーシュキンの方がいいのよ」
と言いながら、彼女は急に広瀬の手を取った。両手にしっかりその手をはさんで、彼の目を見入りながら、哀調を帯びた声で歌いはじめた。
誘われて、捨てられて、身を投げて、水の精になった伝説の女--- 「ルーサルカ」 の末節である。
幾日過ぎても、想う君は会いに来ない。やっと来てくれたので、嬉しやとその腕に抱かれると、その君は物思いに沈んでいる。不安になってたずねると、
「国のために」 他の女を妻にすることに決められらたといって、贈物の黄金や宝石を差し出す。振り払って駆け出して行き、河に身を投げる・・・・・・
その調べは哀婉であった。その情景は心に沁みた。プーシュキンが今の彼女の身の上を歌っているように感じ入ったのか、感動が高まるにつれて、彼女の目は涙に濡れた。
歌が乱れた。嗚咽にかわった・・・・・・とうとう涙にかすれた歌が終わりに近づいて 「私はあの方を愛している。私はあの方を待っている」
という一節まで来た時、プーシュキンの歌の句をそのまま彼女の言葉にして、彼女は
「わかってくださった?」
と囁きながら、男の胸に彼女の顔をうずめて激しく泣きじゃくった・・・・・
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