そのころ緊張の度合いを加えてきた日本とロシヤの関係を調節しようとして、伊藤博文がペテルブルグに乗り込んでくるかも知れぬという予報が十一月の初め飛び込んで、杉村代理公使以下公使館員は色々準備していた。
桂太郎の内閣は、しかし、日英攻守同盟の具体案を同時にロンドンで進行させていた。イギリスと合体するのか、それともロシヤの力を借りるのか、東洋安定の主勢力のあり方については、一般にその具体的な策がわからなかった。したがって、ただ情勢を見ているだけであったが、結局伊東は随員都築馨六をしたがえて、十一月下旬、ペテルブルグに到着した。
二十八日には、ニコライ二世に謁見し、それから十二月四日まで、ロシヤ政府の首脳部と会見して、色々な意見を取り交わしたらしい。朝鮮をどこまで日本に任すかということが、交渉の眼目であった。
ロシヤ側は大変丁寧にもてなし、この頃、対日感情はすこぶるよかった。伊東公爵も一国の元首なみの待遇を受けた。
金銀をちりばめた、見るからに立派な二頭立ての馬車をもって迎えにきた。一般市民の熱狂的歓迎ぶりも、ものすごい位である。日本人全体に対する好意は、あまねく行き渡っていた。ほとんど予想外の大歓迎を受けたと言っていい。大蔵大臣のウイッテの方からわざわざやって来て、探りを入れるし、皇帝も心から伊東を歓待するし、ものに感じやすい人だから、伊藤の対露感情もあたたかだった。
公使館で、館員一同の伺候を受けたとき、伊藤は大変機嫌がよかった。彼はこの時六十才。小柄で背は低い。思ったより温和で、快活な話し手だ。よく笑う。山県と伊藤と、二人とも広瀬は嫌いだった。元勲などというから、どんなにこわい老人かと思っていたら、予想外に愛嬌があって、好感がもてた。
「いよいよ物騒な世の中になった。日本も何とか考えねばなるまい。日本には金がないときている。どうしたものかなあ。」」
と、いった調子で酒井に物をたづねる。
「そんんあ大問題は大臣のお答え申すべきもので、私共のとかくくちばしを挟むものではございませぬ。」
と、例の不得要領的返答をすると、
「君には私見があるじゃろう。今の日本の海軍力で大丈夫かな?」
と、追っかけてくる。
「そんならお答え致しますが、どこを相手にしてのお話ですか?」
と反問すると、
「どことは言えぬ。どこの国を相手にしたところで、軍艦をつくらねばならんじゃろう。金の問題で行き悩みになっとるが。」
という話だった。酒井はふだん、駐在員一同の意見を聞かされていたから、ここぞとばかり、
「ただロシヤだけを相手にするなら、大きなことを言う様でありますが、今戦うとすると、負けることはけっしてありませぬ。戦闘力を、軍規から技倆から判断いたしますと、相当の差があります。将来の策としては、大軍艦をつくると大変ですが、水雷艦艇をうんと整備すれば大丈夫でしょう。日本人向きですし、短時日にできあがりますし・・・・・・」
というような月並みな意見を並べ立てた。
十二月七日伊藤はベルリンに帰っていった。日露協商案を促進させたい、日英同盟では、朝鮮問題は根本的な解決が不可能だろうと言う意見を、本国政府に打電した。ところが、イギリス側の出足の方が一歩早かった。
日露協商は内交渉にとどまって、確定したわけではないから、むしろ完成しかけている日英同盟を促進するほうがよいという、日本の内閣首脳部側の議論が勝ちを制して、九日以来形勢は急転直下した。
イギリスと同盟して、背後の海上交通路を確保し、南下して来るロシヤの勢力を、朝鮮、満州で迎え撃つと言う大勢は、こうして出来上がったのである。
しかし、日英の当局は細部の審議に追われて、条約は中々はかどらず、翌二月まで、ことは極秘に附せられていた。
そのころのロシヤ外交は、日本をイギリス側の手先に使われるものと見ていたから、そんなに悪感情を日本に対して持っていなかった。黒幕の悪者は、いつもイギリスだとみて、日本のことは、むしろ気の毒な立場のようにさえ解釈する傾向があった。
広瀬がペテルブルグで暮らした最後の数ヶ月は、こうした対日感情の中に過ごされたのである。
いよいよ帰国と決まって、用意を重ねながら、彼はロシヤの知り合いにその旨を報じた。みんな残念がった。ほんとうにさびしがった人もいあた。
一番辛かったのは、コヴレフスキー邸に知らせに行った時である。少将夫妻は、我が子に遠く去られるようなさびしさだと嘆いた。この夏、レーヴェリの別荘で逢った時、来年の初秋まではロシヤに居られるだろうと予想した。アリアズナもそうとばっかり思っていたから、突然、帰朝命令を受け取ったと言っても、腑に落ちない顔をした。しかし、広瀬の態度が真剣なので、事態は彼女にものみこめた。何とも言えない寂しい表情だった。
まだ八十日ばかりペテルブルグにいます。今の交通機関なら世界一周がゆっくりできる日数ですよ、
と慰めた。まだ時々はお目にかかれるでしょう。
早いもので、父が亡くなってからもう六月、いや七月になる。十一月六日がきた。今年の秋は、暖かいから、東京の小春日和では、目黒の筍飯や、王子の扇屋など遊山の客でいっぱいだろう。
ペテルブルグでも、まだ冬になりきっていない。外套をひっかけて、彼は、ネフスキーの大通りで待ち合わせアリアズナと一緒に、一路、東に馬車を走らせ、ズナメンスカヤ通りのアレクサンドル・ネフスキー教会堂の前に立った。
城のような感じの大伽藍である。ギリシャ正教を信じているわけではないから、アリアズナの礼拝するのに伴って、それとなく父の冥福を祈り、裏手の墓地へ出た。
秋草の枯れた鉄柵を入ると、石を敷いた小径が続いて、小河が静かに流れている。ペテルブルグにもこれほど風情のある一角が残されていたのかと疑われるほど趣のある場所だった。
この橋を渡ると、入り口に近くロモノーソフの墓があった。そのすぐ傍の白大理石の墓はフォン・ヴィージンに捧げられていた。
本通りのすぐ左手に、作曲家グリンカが眠っていた。まもなく歴史家カラムジン、小説家ドスエーフスキーと名士の墓がずらりと続く。
いまは広瀬にとってみんな親しい芸術家ばかりだ。詩人ジュコーフスキーの墓は、別にこれと言って奇抜な意匠もないが、永遠に眠る故人の夢がいつまでも安らかに続くような印象を与えられた。
アリアズナがこの頃習っている教本の中に、この詩人の作品があったので、彼女は特別に興味を覚えたらしく、いつまでもその傍を離れようとはしなかった。
墓石の傍にじっと佇む彼女の姿は、秋の淡い日差しの中に美しかった。ひと彼は、彼女の像が、そのまま動かぬ墓となって、永遠に離れてしまうような錯覚に襲われた。彼女ではなかった。自分こそ間もなく帰る時なく去って行くのだ。・・・・・・振り返ったアリアズナによって、広瀬は現実に引き戻された。二人はもと来た道を引き返した。ほとんど人影が見えない。ロシヤの墓場に来る事はもうあるまいと思うと、枯葉を踏みながら一歩一歩が惜しまれた。どんなに愛する者も引き離してしまう残酷な
「死」 の世界の中にいると、運命というものがひしひしと感じられた。生の中の死ともいうべき別離は、もう二人の行く手に待っていたのである。
帰り道に、広瀬は書店で 「ジュコーフスキー詩文選」 (1901) を求め、さっき話に出た 「墓畔吟」 というのを、その夜熟読した。イギリス詩人グレイの詩のロシヤ訳である。原詩に比べると、幽暗なものが薄れて、甘美な憂鬱がこく流れ、挽歌の感傷調がより強くなったといわれているが、いかにも詩人が訳した詩だという印象はうごかせなかった。
父の死から、故郷の墓を偲び、今日見た墓地を思い起こして、彼は繰り返しこの詩を味わい、その初聯を誦んじた。歌ごころが油然として彼の胸にあふれてきた。
|