勝比古は、エルジックから回航した装甲巡洋艦 「磐手」 の副官に八月の終わりに栄転して、常備艦隊に編入され、その本務に精魂を注いでいた。
この前の 「笠置」 に比べれば、排水量が二倍もある最新式の大艦だから、それだけ手応がある代わりに、副官の苦労は、並々ではない。いつかの手紙に、おれの面相も変わった、と述懐してきた。
親友の竹下少佐が日本に帰った伊東義五郎少将の司令部に常備艦隊参謀として務めているから、兄のこともそれとなく頼もうと思った。日本のそての四倍もあろう、バカでかいロシヤ絵葉書に、彼はそれからそれへと連想の湧き出すままに書きつけた。いろいろな感慨があふれ出たからである。

案内ニ案内ヲ重ネ 「ンフスキーサボール」 ノ上ニ歩ヲ運ビシコト都合十回ニ上リシト記憶致候。
勇サン、
御思ヒ出サレ候ヤ否ヤ、
「ネバ」 ノ河辺ニ
偉人ノ跡ヲ説キ候一昨年ノ昔ヲ。
今年ノ暮ニハ武夫モ尤モ愛慕セシ比得 (ﾋﾟﾖｰﾄﾙ) 大帝ノ功碑ニ辞別シ、芯比利亜 (ｼﾍﾞﾘﾔ) ノ朔雪凍風ヲ冒シ、帰朝ヲ急グコトト相成申候。
帰朝後ハ拝眉ヲ得テ、連袂ノ曽遊ヲ談リ明シ申サンノミ。

「ネバ」 河の 水の�高ﾉ彳立みて まさりし人の昔をぞ思う

兄勝比古ハ 「磐手」 ノ副長トシテ伊東司令官殿ノ麾下ニテ勤務致居候コトト存ジ候。
酒井、田中、加藤ノ三兄モ元気ニ候。

武夫 ━━━

書きながら彼の目の前には、コリント式の列柱が並ぶカザン大伽藍が浮んできた。
ネフスキーサボールと俗称されるものである。
お寺全体が十字架の形で、金色に輝くドームがそびえている。ネフスキー大通りから入る正面の広場で、何度ベンチに腰を下ろしたことか。ナポレオンの鷲の印のついた軍旗と一緒にロシヤの元帥クツゾーフの墓があって、敵と味方の記念が一つ処に並べられていた。
橋を渡って、ペトロパウロフスク寺院のピョートル大帝の寝棺を見てから、夏のネヴァ河のゆるやかに流れるのを指して、この大都の建設者の偉業を、幾度か問いもし答えもした。
あれがもう二年以上も昔なのである。上村大佐の豪快な笑い声、村上中佐の鋭い皮肉が、今も聞えるようだ。
海軍省わきのピョートル大帝像が浮んできた。銅像のそばに日本人が何人か集まっているうちに、竹下の柔和な笑顔がまじっている。あの銅像とももうお別れだ。急に、まだ見たこともないシベリヤの雪空があらわれ、疾風が荒れ狂う。その中をさびしい旅人が一人とぼとぼ通っていく----このごろ読み上げた 「復活」 の主人公のように。
歌は腰折れだ。専門家が見たら吹き出すだろう。まず 「まさりし人」 にしてからが舌足らずである。もちろんピョートル大帝の英姿ははいっているが、胸中に鬱屈するさまざまな映像をみんな込めたつもりなのである。要はただ、昔と今との対照を浮き出さしたいと思った。
昔はよかった。ロシヤの英雄もいたわしい。日本の友人もなつかしい、というほどの意なのである。
それだけこの裏には、今のわびしい心持がにじんでいる。
なぜわびしいのか。自分でもよく分からない。とにかく官命でこの都を去ることになった。帰心矢のような人ならば、どんなにか悦ぶだろうに、俺だけは後ろ髪を引かれるように思う。今の俺には暖かく迎えてくれる故郷はかえってこちらにあるらしい。なかにもアリアズナが俺の心を引きとめているのか・・・・・
ロシヤ女性を思い浮かべると、日本海軍士官の妻になっているフランス女性が連想された。伊東満里子の俤が浮んだ。その伊東少将の部下として、兄が今働いているのも因縁があるように思う。
単純な、あるいは複雑な、気持ちで、自分の行いを見ている上司と同僚三人の健在を報じて、彼は筆をとどめた。